めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年8月28日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主が指摘されることばは、素直に受け取って神の恵みを得よ>



★旧約聖書 イザヤ書 57:15
   いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられ
   る。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく
   だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

★旧約聖書 箴言 27:5、6
   あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすより
   は、愛する者が傷つけるほうが真実である。

★旧約聖書 詩篇 141:5
  正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私
  の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。

●イエスがパリサイ人や律法学者に対して、直接「忌まわしいものだ。」と非難しておられる場
面がマタイ23章、ルカ11章にある。 ただ、「忌まわしいものだ。」と聞けば嫌悪感をあらわにし
ているようだが、原語では、怒りと悲しみが混じり合った言葉が使われているという。 英語で
も「悲痛、苦悩、悲嘆、悲哀」という単語が使われているようだ。 

イエスは、カナンの女に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされ
ていない。(マタイ15:24)」
と言われたが、当時、主イエスの働きの範囲は、原則的に「イスラエ
ルの家の失われた羊」
、すなわち、神の民ユダヤ人であった。 神の民であっても神を見失
い、滅びの中を歩んでいた者たちがいた。 また「めんどりが翼の下にそのひなを集めるよう
に、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。(マタイ23:37)
」と主は言われ
たが、このようにして見るとき、主イエスは律法学者、パリサイ人が皆、悪いと言われているの
ではないと思われる。 

イエスは「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」と言っているが、この「偽善」
を問題としておられるようだ。 この「偽善」の律法学者、パリサイ人たちは、人に神の掟を教
えながら、自分たちは実行していなかったことや人に見せびらかすことを好んだこと、先生と呼
ばれて高ぶっていたことなど、すべて神からみれば「偽善そのもの」であった。 サタンの特徴
の一つに「偽り」がある。 

確かに、主イエスは、偽善の律法学者、パリサイ人たちに厳しいことばを語られた。 それは
主は義なるお方であられるから、「偽り」「偽善」を許しておくことはできないからだ。 そして、
本来、神の民は神に従うべきであるはずなのに、彼らが神に敵対し滅びの中を歩んでいたか
らだ。 それでも主が語られたときの心中は、ただ彼らを忌み嫌う、憎むというものではなく、
激しい痛みと悲しみがあったと思われる。 

しかし、律法学者、パリサイ人たちにはイエスの心は通じなかった。 古い律法をしっかり握り
しめ、自分たちが行なっていることこそ神のみこころと思い込んでいた彼らは、イエスのことば
に反発した。 「偽善」、それが彼らの本質だったのかもしれない。 その本質「偽善」を指摘さ
れたのだから、彼らのイエスに対する反抗は半端ではなかった。 彼らはピラトにねたみから
イエスを引き渡し
殺そうとした。 実際、彼らは群集を扇動してイエスを十字架につけた。

人はうすうす気づいている本質を指摘されると怒る傾向がある。 人は痛いところを衝かれる
と一番腹が立つものである。 人は本当に思っていること(本音)を指摘されると怒りたくなる。 
人付き合いの中で無責任に、人の本質や本音を指摘することは問題であるが、一旦、主がそ
の人を変えるために、言われる場合は、その言葉をもって悔い改め、砕かれる者は幸いであ
る。 その人にとって痛いことばでも、素直に受け入れるなら神の恵みを受ける。 聖霊がその
人のうちで働かれる。

主が直接、人に言われる、指摘されるということは、今日では稀かもしれないが、様々な手段
で主はご自身のことば、みこころを人に伝えようとされる。 聖書のことばを通してであったり、
祈りの中で示される、指摘されるということがある。 また牧会者など人を通して、主はご自身
のことば、みこころを特定の人に語られるということもある。 また、その人を変えるために、牧
会者など人を通して、本質や本音を指摘されるときもある。 

特に教役者(エペソ4:11)は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て
上げるため」
に主から賜物を預かっているので、「言いにくいことをあえて言う」ということもある
だろう。 主から預かっていることばであるなら、伝えないわけにはいかない。 ただ、人は、人
から指摘されると、それが主からのことばと頭ではわかっていても腹が立ったり、言い訳したり
して、へりくだることが難しくなることもある。 

それでも、どのような形であれ、主が語られ、主が指摘されているときには、とにかく素直に受
け取ることである。 ★「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにお
ののく者だ。(イザヤ書66:2)」★「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた
心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)」
と書かれている。 

我々は、主が語られる御声、またはいろいろな出来事を通して、いろいろな人を通して語られ
る主のみことばの前にへりくだっていきたいものである。 日々、単なる反省ではなく、心の方
向転換である悔改めをもって主に祈り、主が定めておられる一人一人に示してくださる道を歩
んでいきたいものである。 絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、キリストとの交わりを深
くしていき、聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいものである。

★旧約聖書 箴言 15:11
   よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。

★旧約聖書 箴言 25:11,12
   時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。 知恵
   のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。




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