めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年8月21日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<古いところにいたとき、悪い霊に触れたときの悪影響は除かれる必要あり>



★新約聖書 第二コリント人への手紙 6:17、18
   それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れ
   ないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父
   となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

★新約聖書 第一コリント人への手紙 6:16、17
   遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体と
   なる。」と言われているからです。 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

●イエスの時代、ユダヤ人は当時のローマの支配から完全に解放され、旧約聖書の預言のと
おり、メシア王国の到来(=イスラエルの完全な回復)を願っていた。 12弟子もユダヤ人であ
り、ユダヤ人社会の中で育ってきていたので、多かれ少なかれユダヤ思想の中でも「イスラエ
ルの復興」の影響は受けていたと思われる。 

だから、復活されたイエスに彼らが質問したのは「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興
してくださるのですか。(使徒行伝1:6)」
であった。 ユダヤ人社会の中で育ってきて、ユダヤ思
想が彼らの中に深く染み込んでいた可能性はある。 ユダヤ思想とは、ひと言でいうなら「イス
ラエル民族中心主義」と言えるかもしれない。 イエスが十字架にかけられる前、12弟子に十
字架にかけられることを話されたとき、最初の12弟子の反応は、「主よ。・・そんなことが、あな
たに起こるはずはありません(マタイ16:22)」
と言ったペテロのことばとおり、その話しを受け入
れることが出来なかった。 2回目に話されたときは、「彼らは非常に悲しんだ。(マタイ17:23)」 
なぜなら、彼らは、イエスが政治的にイスラ工ルの王となって、神の国を立てられるという期待
を放していなかったからである。 3回目に話されたとき、ヨハネとヤコブの母が、息子を神の
国の王座の右と左につけてくださいと頼んだ。 やはり、ユダヤ人がずっと持っていた選民意
識的「イスラエルの復興」が、そのことばの足場になっていた。 

弟子たちは、キリストを信じ、主に従って行くうちに、主がそのようなところを少しずつ取り除い
てくださっていたようではあるが、主のことばを受け取るにおいて心の底にまで染み込んでいた
「イスラエル復興」の思想は、主がいわんとされていることを正しく受け取ることを妨げていたよ
うである。 しかし、聖霊が彼らの上に臨まれてからは、聖霊が彼らに教えられたので、心の底
に浸透していた根底のもの、影響を受けていたもの、すなわち彼らの古きは取り除かれたと見
受けられる。(Tヨハネ2:27) 

このように、人は、人が心身を寄せているところ、集団、組織、思想、考え、人間などの影響を
受けていると、何か他の教えや考えなどを聞いたとき、影響を受けているところを足場にして
受け取りがちである。 その影響を受けているものが真の神、主イエス・キリストであるなら問
題ないのだが、それ以外のもの、特に悪霊の影響を受けているものが心に染み込んでいる
と、聖書や直接に語られる主のことばや主が人を通して語られることばが、主が伝えようとさ
れることを正確に受け取ることができない場合があり得る。 そして、その影響を受けているも
のは、「古きもの」である。 「古きもの」は、「新しいもの」を無意識にしろ排除するか、もしくは
「古きもの」を基準にして、的外れた解釈をさせようとするか、いずれかの場合が多いようであ
る。 

著者が以前、所属していた教会の牧師は、ある教団で牧師をされていた。 ところが、夢か何
かでその教団は悪霊が何らか関与しているようで主が喜ばれないから、教団から出るようにと
の示しを受け、実際、出られて、単立の教会を主の導きにより建てられた。 一人で出るつもり
が、十数名の信者がその牧師についてきたという。 主の召しに従った牧師は、聖霊が大いに
働かれ、教会は神の恵みを豊かに受けて成長したという。 著者がその教会で救われ、通い、
仕えるようになった当初は、牧師の霊的洞察力も信仰も優れていた。
 
ところが、著者が教会を追い出される少し前から、道が逸れてきていたように思われた。 当
時は、あれっと思うことがあっても、若干、牧師の導きに洗脳がかったところがあり、明確に見
破ることができなかった。 やがて聖霊の第三の波など、偽りの霊に惑わされ、ますます道が
逸れてきた。 そのようなとき、教会で牧師訓練を受けていた著者が、牧師の思うようにならな
かったので、役立たず、と教会を追い出されてしまった。 しかし今思えば、その教会に最初導
かれたことも教会を追い出されたこともすべて主の導きであった。 そして訓練、試練の時と
なった。 そのような中で主のあわれみと守りがあった。 主に心から感謝する。
 
さて、教会を追い出されてから、教会不信、クリスチャン不信、人間不信に陥ったとき、とにかく
祈った。 そして、何故、追い出されたのか、自分のどこが悪かったのか、など主に尋ね祈る
日々を過ごした。 そして、主が教えてくださったことの中の一つは、その牧師が、教団を出る
時、教団のものをすべて置いて出るべきだったということである。 教団のもの(教え、考え、や
り方・・)の一部を持って出たということである。 そこが悪霊が道を逸らさせるのに十分な入り
口となったということである。 

教会を追い出されてからずっと、教会時代の教えや考え方、やり方をしていたが、主にこのこ
とを教えられてから、きっぱり捨てた。 ただ、きっぱり捨てたつもりでも以前の教会のものが
心に染み込んでいたため、ひょんな時にその染み込んだところが足場となった考えや思いが
出てきた。 それらが取り除かれるのは結構、大変だった。 とにかく気づかせてくださるよ
うにと祈り、また気づかせてくださったときには感謝の祈りをした。 著者にとって以前の教会
は「古いところ」であった。 

そして祈っていくうちに、何が重要なのか、今はどうあるべきなのか、何をどのように捉えてい
けばよいのか、・・・など一つ一つ主がいろいろな体験などを通して教えてくださった。 そして
人(クリスチャン)や今までの教会のやり方にとらわれず、聖霊の導かれるまま歩むということ
を教えてくださった。 すると、目から鱗が落ちたように主の御心がわかり始めた。 キリストと
しっかりつながっておくこと、このことが重要なのである。 

とにかく、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、真剣
に求めていきたいものである。 そして、主のみことばを正しく受け取るのに妨げる「古きもの」
がないかどうかを探っていただき、ますますキリストとの交わりを深くしっかりとしていき、新しい
聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいものである。

★旧約聖書 イザヤ書 30:21
   あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」
   と言うことばを聞く。

★旧約聖 箴言 8:34
   幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見
   守って、わたしの言うことを聞く人は。



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