めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年8月7日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<偶然と思える出会いや出来事も神の計画の中にある>


★旧約聖書(口語訳) エレミヤ書 29:11
   主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。そ
   れは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来
   を与え、希望を与えようとするものである。

★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

★旧約聖書 詩篇 16:8
   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

●我々が日常生活の中でよく聞かれる「偶然」ということは、神のご計画にはない。 人の目に
偶然と見えることも、実は神のご計画の中にあることだ。 一つ一つの出来事は神が支配して
おられる。 聖書に「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることは
ありません。(マタイ10:29)」
と書かれてあり、「無から有を呼び出される神(ローマ4:17)」「キリ
ストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2:10)」
と書かれている。 すべてのものは
神の掌中にあるということである。 だから偶然の出来事は何もない。

聖書の中に「偶然」のようで「神の必然」という場面が多々ある。 その一つ。 サマリアの女は
主イエスと出会ったことにより救われた。 主イエスがユダヤからガリラヤに戻られるとき、「サ
マリヤを通って行かなければならなかった。」
と書かれている。(ヨハネ福4:4) 神の方がサマ
リヤの女と会うことをご計画されていた。 しかし、この状況だけ見ればサマリヤの女や我々に
は「偶然」と見えるかもしれない。 それでも真実は、神が采配しておられたということである。 
そして、サマリヤの女は主イエスによって救われた。

もう一つ。 パウロに対する暗殺計画である。(使徒行伝23章) ユダヤ人たちが一致団結して
パウロを殺そうと陰謀を企て、四十人の者たちがパウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い合
た。 パウロの姉妹の子が、たまたま待ち伏せのことを耳にして、それを兵営のパウロに知ら
せた。 そのことはパウロから百人隊長に伝わり、千人隊長へと伝わり、パウロは暗殺から逃
れることができた。 待ち伏せのことを聞いたことは人から見ると「偶然」としか言いようがな
い。 しかし、そのことは神のご計画の中にあったこと。 ゆえに神の采配、神の支配の下で起
こるべきして起こったことである。 

また、旧約聖書エステル記には、ペルシャのアハシュエロス王の新しい王妃募集に、ユダヤ
人モルデカイが送ったエステルが王妃になった経緯が書かれている。 王の取り巻きであった
ハマンが国内のユダヤ人全体を虐殺するという陰謀を持って妨げた。 書かれている一つ一
つの場面においては、人から見れば単なる偶然と思える事件の積み重ねだが、すべて神が采
配していた、いわば計画されていたことであることがわかる。 聖書の中には、このようなこと
が多く書かれている。 

著者の場合。 主イエス・キリストを信じてこれまでの人生の中で起きた大小に関わらず、すべ
ての出来事は、偶然に起こったこととは思っていない。 たとえ誰が聞いても「偶然」と思えるこ
とも、すべてのことは神の御許しの下、神のご計画の中にあったと痛感している。 その上、主
を信じる前の出来事さえも、神の計画の中にあったことと受け取っている。 救われる前に起
きたすべてのこと、それが、自業自得で起こったことであれ、自分には全く責任のない状態で
起きたことであれ、また不慮の出来事、いろいろな人との出会い・・・などすべて神はご存知で
あったこと、神のご計画の中にあったことと認識している。 

知らなかったとはいえ、神が忌み嫌われる罪を犯したこと、コチコチの自我の塊からくる自分
中心だったこと、自業自得のために起きた出来事のこと、などをゆるしてくださり、そのような
体験さえ、主のために生きるため、主のために働くために益にしてくださった主を心から感謝し
続けている。 また、今後のすべての経験を支配し、導いて下さり、万事を益としてくださると確
信している。 そのために、今後も日々の詳細にわたって、キリストに介入していただけるよ
う、主の御心を尋ね祈っていきたいと思っている。

「偶然」ではなく、神のご計画の中にある、神の支配、采配であることを、本当に知るために
は、人がそのことを認めること、実際的に日々、自分に起きるすべてのことに主に介入してい
ただき、体験していくことが必要である。 偶然と思えることを、主に介入していただくなら、
我々一人一人に対して持ってくださっている神のご計画を少しずつ知っていくことになる。 

我々は、神のみこころ、御思いのすべてを知ることは出来ないし、神のご計画のすべて、初め
から終わりまで見極めることは出来ないが、人生の中で日々の生活の中に、キリストに介入し
ていただくなら、主は御心や御思い、主ご自身を少しずつ知らせてくださる。 そして、たとえ
我々には喜ばしくなく思えることでさえも、神の働きによって、すばらしい結果に変えられる。 

我々は先のことは誰にもわからない。 人が自分で計画を立てて、その計画通り、進むことは
できるかもしれないが、その計画が神の御心と一致しているとはいえない。 神のご計画は、
我々が理解できるような単純なものではない。 しかし神はご計画されていることを、その通り
なさる。 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言19:21)」
書かれているとおりである。 

今後も人生にはいろいろなことが起こるだろう。 不思議と思われることも起こるであろう。 
「偶然」と思われる出来事の背後に、必ず不思議な神の導きがある。 たとえ、事の大小にか
かわらず、どのようなことが起きても、「偶然の出来事」として片付けたり、原因追求に捉われ
て、神の支配、采配、ご計画に目を瞑ることのないようにしていきたいものである。 キリストに
介入していただく人生を送るなら、人生に絶望するということは決してない。 

そのためにも、絶えず、すべてのことにおいて自分の前に主を置いて、主の主権を認め、神に
全面的に委ねていく生き方、すなわち「主を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していき
たいものである。 主イエス・キリストから目を離さず、直接的なキリストとの交わりを深くしてい
きたいものである。

★新約聖書 ローマ人への手紙 11:33、11:36
   ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り
   尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
   というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、こ
   の神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

★旧約聖書 詩篇 1:5
   主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。




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