めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年7月31日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<アダムとエバ以来の人間の本性>



★新約聖書 ローマ人への手紙 5:19
   すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひと
    りの従順によって多くの人が義人とされるのです。

★旧約聖書  詩篇 78:39
 神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:24
   キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけ
   てしまったのです。

★新約聖書 エペソ人への手紙 1:7
   私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けてい
   るのです。これは神の豊かな恵みによることです。

ヨハネによる福音書9章に登場してくるいやされた盲人の両親について。 イエスは旅の途
中で、生まれつき目の見えない人と出会われ、その人の目をいやされた。 生まれつき目の見
えなかった人が、見えるようになったことは、まさに奇跡である。 近所の人たちや、前に彼が
こじきをしていたのを見ていた人たち
は、とても驚いた。 なかなか信じがたいことだったので、
人々は「あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」と言った。 彼は、自分の身に起こっ
たことをそのまま伝えた。

ところが、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であったことを知ったパリサイ
人たちが、安息日は働いてはいけないのにイエスは泥を作って働いたと騒ぎだした。 ユダヤ
人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになった
ということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、「
生まれつき盲目だったあなたがたの息子
、どうしていま見えるのか。」と尋ねた。 

すると両親の答えは「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知って
います。 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけた
のか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すで
しょう。」

9章22、23節
には「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユ
ダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると
決めていたからである。 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてくださ
い。」と言ったのである。」
と書かれている。

この盲人を見たとき、イエスの弟子たちは「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯した
からですか。この人ですか。その両親ですか。」
とイエスに質問をしている。 イエスは、「この
人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨ
ハネ9:3)」
と答えられたが、当時のユダヤ人たちは、生まれつきの盲人に対して、弟子たちと
同じような見方をしていた可能性はある。 そのような中、息子の目があいたことは、息子に
とっても、この両親にとっても、良き知らせであり、本当に喜ぶべきことだったはずである。

しかし、この両親は喜ぶどころか、だれがいやしたのか知らない、息子に聞いてくれ、と自分た
ちは無関係ということを強調する答えをした。 両親は、ユダヤ人社会から追い出されるのを
恐れた。 明らかに、自分たちの身を守った。 自分たちのことしか考えなかった。

「子に過ぎたる宝なし」「子は鎹(こはかすがい)」「掌中の球(しょちゅうのたま)」など親が子に
対しての愛、想いが表されたことわざがあるが、その麗しさの欠片(かけら)も見えない。 大切
なのは自分であって、どのような言い訳をしても自分を守る。 この一語に尽きる。

ただ、この性質は、本来もっている人間の本性と言えるのではないだろうか。 アダムとエバ以
来、人の中に綿綿と受け継がれてきた本性なのではないかと考えられる。  彼らが、神から
「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず
死ぬ。(創世記2:17)」
と言われていたが、蛇の言葉「あなたがたは決して死にません。あなた
がたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・」
を受け
入れ食べた時、罪(罪の性質)が入ってきた。 罪とはある意味、サタンの性質とも言える。

神が食べてはならないと言われた善悪の知識の実を食べ、罪(罪の性質)が入ってきたとき同
時に「知恵」が入ってきたようだ。 それも自分を守る知恵。 自己中心的な知恵。 神がアダ
ムに「食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と仰せられると、アダムは「あな
たが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
と言い、エバは「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」と言った。

決して自分の罪、非を認めようとせず、自分をかばい自分は悪くないと主張する、自分中心の
この性質、本性は、サタンの性質そのものであるとも言えよう。 しかし、これがアダムとエバ
以来の人の中にある本性である。 どんなにすばらしい人でもどんなに愛していると言っても、
揺す振られると出て来る究極の性質である。 

すべての人は、そのアダムの性質を受け継いでいる。 その本性は、修行しても努力しても取
り除かれることはない。 何とか表に出てこないように心の奥底に押さえつけることはできるか
もしれないが、何かあれば、自分をかばおうとして、自分を守ろうして、いつでも出て来るもの
である。 そのままでは本当に神に裁かれて滅びてしまうように見える。 しかし厄介なのは、
自己中心になっているとは思わず、自分の気持ち、思い、考え、願いなどを主張して、その本
性が神に忌み嫌われていることを認めないことである。 そのようなときには、主への感謝が
ない。 へりくだりがない。

本当に、アダムとエバ以来の人の中にある本性、罪が根ざしている本性、古い性質から救わ
れ、解放されることは重要なことなのである。 すでに主イエスキリストは我々、主を信じる者を
救うため、罪に支配されている本性、古い性質から解放するため、我々の身代わりとなられ
て、罪(原罪、個別の様々な罪)、罪に支配されている本性、古い性質、病、咎、・・・をご自身
の身に受けて死んでくださった。 そして3日目によみがえられて今も生きておられ、へりくだっ
て主を求める者のために働いてくださっておられる。 主をイエス・キリストをほめたたえ、心か
ら感謝する。

ちなみに、そのような騒ぎの中で、いやされた盲人は、自分の目をいやしてくださった方が、キ
リストであることに徐々に気付いてきて、「自分をいやしてくださった方は、神から来られた方で
す」とパリサイ人たちに公言した。 そしてユダヤ人社会から追放された。 イエスは、追放され
たその青年に再びお会いになり、彼はイエスの弟子になった。 事の大きい小さいに関わら
ず、たとえ自分にとって不利になろうが、主がしてくださったことを忘れないことは大切である。 

いずれにしても、日々絶えず、主イエ・キリストから目を離さず、十字架のもとに自分を置き、
主の御心を知って祈り続け、新しい聖霊の川の流れに乗り続けていきたいものである。

★新約聖書  ガラテヤ人への手紙 5:16
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
   なことはありません。




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