めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年6月12日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主がともにおられる者>



★旧約聖書 イザヤ書 41:10
   恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたし
   はあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

★旧約聖書 詩篇 105:17〜19
   主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足か
   せで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおり
   になる時まで、主のことばは彼をためした。

●旧約聖書に登場してくるヤコブの子ヨセフの人生も父親のヤコブ同様、波瀾万丈だった。 
ヨセフはヤコブの12人の息子の内11番目だった。 ヤコブが最も愛した妻ラケルから生まれた
長男だった。 ヤコブは格別ヨセフを愛した。 イスラエルの家の後継ぎの子であることを示す
「そでつきの長服」を着せたりしていた。 そのヨセフは、あるとき夢を見た。 ヨセフたちが畑
で束をたばねていると、突然、ヨセフの束がまっすぐに立ち上がると、兄たちの束が回りに来て
ヨセフの束におじぎをしたという。 当然、兄たちは夢のことや、ことばのことで怒り、ますますヨ
セフを憎むようになった。(創世記37:5〜8

ところがヨセフは別の日、他の夢を見てまた兄たちに話した。 それは、太陽と月と11の星がヨ
セフを伏し拝んでいるという。 要は、父母、兄弟たちがヨセフにひれ伏しているということであ
る。 このことに関しては、父ヤコブはヨセフをしかりはしたが、その夢を心に留めたと記されて
いる。 ヤコブも夢によって神の啓示と導きを体験していたので、ヨセフのその夢に何か神の
計画を感じたのかもしれない。(創世記28章、37章) ヨセフ自身も、これらの夢は単なる夢で
はなく、神の啓示、ことばと受け取っていたのかもしれない。

ヨセフが17歳のとき、ヨセフの兄弟たちはヨセフをねたんで、ヨセフを殺す計画を立てた。 長
男ルベンの反対と四男のユダの提言によって、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。
(創世記37:28)
 ヨセフはエジプトへ連れて行かれ、パロの廷臣で侍従長のポティファルという
ひとりのエジプト人が、ヨセフを買い取った。(創世記39:1) 
ヨセフの自由は失われ、ただひた
すら主人に服従するだけの生活が始まった。 父ヤコブに大事に育てられていたヨセフにとっ
ては、相当苦しい生活であったことだろう。 また、見た夢、ことばとは正反対の方向へと向
かっているように思えたことであろう。

しかし、「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家に
いた。(創世記39:2)」
と記されている。 そこで奴隷として主人に仕えた。 エジプト人の家での
生活で、それまでの苦難や不幸が去り、状況が上向きになって幸運な人になったと思われたと
き、またも苦難がヨセフに降りかかってきた。 強姦未遂として訴えられ、釈明する機会も与え
られず、無実の罪で監獄に入れられた。 ますます夢とは反対の方向へまっしぐらに突き進ん
でいくかのように思えたことであろう。 

その後、監獄の中で同じ囚人の夢の解き明かしをして、そのことをきっかけに2年後に監獄か
ら出ることができ、パロの夢の解き明かしをしてエジプトの大臣となった。 30歳であった。 奴
隷として主人に仕えていたことは、むしろ訓練となっていた。 エジプトの国全体を見事な手腕
で管理した。 エジプト人の主人の家を管理したことが、パロのもとで国全体を管理する働きを
するのに大いに役立った。

そして大飢饉が起きる。 その飢饉の最中、ヨセフと兄弟たち、父ヤコブは再会した。 兄たち
に再会した時、ヨセフは気づかないふりをし、兄たちをスパイ扱いをした。 そのことが兄たち
に悔い改めの心を引き出させた。 兄たちは、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がし
きりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦し
みに会うのだ。・・・だから今、彼の血の報いを受けるのだ。(創世記42:21,22)」
と言った。

ただ、神が人に悟らせたいこと、させたいことはもっと深い。 悔い改めも、罪の深さを真に
知ってすることが大切である。 その深さを知れば知るほど、許されたときの感謝もまた深い。 
ヨセフは素性を簡単には明かさなかったが、ついにヨセフは兄弟たちに自分のことを知らせ
て、泣いた。 そして父ヤコブとも喜びの涙の再会となった。 ようやくヨセフにとって体だけで
なく心の苦難も終わった。 耐えるだけしかない苦難も必ず終わりがあるということであろう。 

父ヤコブは、ヨセフに再会したとき、心に留めていたヨセフの夢、ことばが真実であったことを
目の当たりに見た。 ヨセフは与った夢、ことばには、大きな神の計画が立てられていたことを
実際、歩んできた人生によって知った。 神の摂理、神の目的を知り、神のみこころを悟った。 
だから「今、私をここに遣わしたのは、実に、神なのです」と言えた。(創世記45:7、8

ただ、ここまでたどり着くには、あまりにも多くの苦難、困難があった。 しかし、それらの苦難
は何一つ無駄になっていない。 無意味な苦難など何一つなかった。 すべて家族と残りの者
を救うための訓練となった。 それは、神の支配のもとであったこと、だからである。 

我々ももし、たとえ神から夢を与った、主がことばを語ってくださった、というようなことがあった
としても、最初から何もかもみな知らされているということはない。 それらの夢やことばの解
釈、受け取り方さえ、終わり頃になってようやく、こうだったんだ、そうだったのか、とわかること
の方が多い。 ヨセフも夢やことばの具体的なことがらを最初だけでなく、途中過程においても
知ることはなかった。 

神から与った夢やことばは、神の目的でもある。 だから完了するまでの過程は、神のご計画
通りに進められる。 そこには人と人の計画は介入できない。 だから神の計画というのは、
最初からみな人に知らされるものではない。 後になって、ようやく知らされる、明らかにされる
ということの方が多い。

ヨセフは、神の計画の中で、流れのままに乗って進んで行ったが、何度も流れから降りたくな
る場面に遭遇した。 それでも、神が計画された道を歩むために、困難、苦難、不公平・・・など
降りかかってきた災いを自らの力で払いのけることはしなかった。 流れに任せた。 すなわ
ち、神の導きに身をゆだねた。 ヨセフは神から与っていた夢、神の啓示を握っていたと思わ
れる。 そこには父ヤコブから受け継いでいた神への信仰が働いていたと思われる。

ヨセフの生涯の特徴は「主がともにおられた」である。 そして、このことは、父ヤコブも同様で
ある。 聖書に登場してくる主の喜ばれた人たちの特徴とも言える。 共通していることは、彼
らはみな、苦しみの時を耐え抜いたことである。 神が定められた道を歩む者、神のご計画の
中に留まっている者、へりくだって神の導きに従っている者たちは、同じような苦難の道を備え
られることがあるかもしれない。 神の子として、栄光へと導かれるために、ヨセフたちと同じよ
うな苦しみに合うことがあるかもしれない。 しかし、「主がともにおられる」、このことは確かな
ことである。 これほど勇気付けられることはない。 

いずれにしても、いかなる状況、状態になったときでも、主と主のことばから目を離さないこと、
主と真に しっかりつながっていることである。 そのためにも主の御心を知るために聖書を読
み、真に祈っていくこと、そして主と主のことばの御前にへりくだり、聖霊の流れに乗っていく
ことをしていきたいものである。

★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:23,24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れて
   も、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。



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