めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年5月22日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<キリストと深くしっかりつながることが重要である!>



★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が
   ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな
   たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

★旧約聖書 詩篇 16:8
   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

●旧約時代(紀元前700年頃)、「ヒゼキヤは二十五歳で(ユダの)王となり、二十九年間エル
サレムで王位にあった。」(U歴代誌29:1)
 神の命令を心を尽くして行ない、「彼のあとにも彼
の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(U列王記18:5)」
と言われ
るくらいだった。

ヒデキヤが偶像を打ち砕くことを忠実に行った後、アッシリヤの王セナケリブがユダ王国を攻
めてきた。 ヒデキヤ王は預言者イザヤに窮状を訴え、イスラエルの神を冒涜するアッシリヤ
の王セナケリブのことばを神に訴え祈った。 神はヒゼキヤ王の信仰に応えエルサレムを救わ
れた。 災いが過ぎ去り、ヒゼキヤ王は苦しみから解放され落ち着いた生活ができるように
なった。 その上、多くの人々からえりすぐりの贈り物を受けるようになり、すべての国々から
尊敬の目で見られるようにもなった。(U歴代誌32:23) しかし、そのようなときこそ神からの試
しがあるときであり、その人が真に神につながっているかどうかが明確にわかるときでもある。 

どういう状況、状態のときでも主としっかりつながっていること、これが大切なことである。 表
面上だけでなく心の底からつながっていることが重要である。 人生、平穏無事で暮らせること
は幸いなことかもしれないが、聖書によると、本当の神の子であるなら訓練、試練があるとい
う。(ヘブル12章)

新約聖書
の登場人物の代表といえるパウロとペテロのクリスチャン人生を見るなら、最後は殉
教している。 キリストの弟子として、この地上では苦難、困難の多い歩みであった。 しかし、
出口のないような悲痛さはない。 そのような中でも主から「来る恵みとあわれみと平安」をい
ただいていたからである。(Uヨハネ1:3) また、彼らは「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練ら
れた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出し、この希望は失望に終わることがない
と知ってい」
たし、事実そうだったからである。(ローマ5:3〜5:5) 

苦難や困難にあっているときも、比較的落ち着いた歩みをしているときも、彼らにとって変わら
なかったことは、キリストとの交わり、つながりがしっかりしていたということである。 彼らは、
自分たちに起こるすべてのことは、神の御許しによることだと認識し、いつも主と主のことばに
目を留めていた。 それは、ある意味、肉(生まれつき)からくる自分の思い、考え、感情が清
められ、変えられていなければ、すなわち、自我(肉の自己)が砕かれていなければ、できな
いことである。

ところがヒデキヤの場合は、エルサレムが守られ、救われたその後に、病気になり、預言者イ
ザヤを通して自分の死が宣告され、家の整理をせよ、と主の命令を受けると、自分がどれだ
け主に従ってきたか、仕えてきたかを主に訴え、命乞いをした。(U列王記20:1)  結果、15
年寿命が加えられたが、その間、生まれた子、マナセはユダとエルサレムが滅ぶような悪を行
ない、また見舞いに来たバビロンの使者には、富のすべてを見せ、このことによってユダ国は
バビロンによって滅ぼされることを主から告げられることになった。 しかし、このとき、ヒデキ
ヤ王は「自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思」い、「ありがたい」と言うほ
ど自己中心の塊に成り下がっていた。  

問題や困難、苦しみがあったときには、主に堅くすがって、離れることがなかったが、問題が解
決され、苦しみから解放されると、主と主のことばより自分の願い、思いを優先、主張したから
、すべて歯車が狂うように悪くなってきた。 しかし、当の本人は、自分のことしか考えていない
ので、悪くなってきたことを悲しむことさえできなくなっていた。 問題や苦難、困難があるとき
は、比較的、主にすがりやすいが、重要なことは、問題が解決した後でも、苦しみから解放さ
れた後でも、いつどんなときでも主に堅くすがること、主と主のことばから目を離さないこと、主
と真に しっかりつながることである。 

神、主はご自身の意志を持っておられる。 人はその神のかたちにかたどって造られたゆえ、
自由意思(意志)を与えられている。 また主が人を愛してくださっているがゆえ、人は自由意
思を与えられた。 だから人がどうしてもと、自分の願いを強く願うとき、それが本当は主の願
われていることではないもの(こと)、主から見られて最善ではないもの(こと)であっても、主は
強いて止めさせようとはされない場合がある。 それは人の自由意思を尊重されるからであ
り、自由意志(意思)はその人のもの、その人に任されているからだ。 

また、主がそれ以上に重要視されているのは、その人の心の奥に潜んでいる(潜ませている)
思い、もしくは自我(自己)である。 ヒデキヤがパウロやペテロ、または同じ旧約時代のヤコブ
やダビデとの違いは、自我(自己)が砕かれていなかったこと、何かあれば、主の御心や御思
いより、自分の願い、自分の思いをしっかり握って離さず、温存させていたことであると思われ
る。 ここが一番の問題である。

苦難、困難のときは、主によりすがるだけでなく、自我(自己中心の自己)が砕かれたり、肉
(生まれつきのもの)が切り取られたり、清められたりする良い機会である。 主とのつながりを
しっかりする、深める、様々な苦しい問題、出来事の中でも、主を見続け、主のみこころを握る
ことができるようになる訓練のときである。 

だから、問題解決、災いや苦難からの解放などを主に求めるとき、主の御心を問いながら、自
分の思い、考え、感情、すなわち自分自身を主にゆだねつつ、祈り求めていくことが重要に
なってくる。 主の方が、求めてくる者一人一人の問題、出来事に対する答えを持っておられる
からだ。 主がみこころを行なってくださることが一番よい。 それが最善である。 ただ、我々
求める者の方が、みこころと少々離れたこと、最善以下のことを求めている可能性があること
も問題であろう。

いずれにしても、とにかく重要なことは、いかなる状況、状態のときでも、主と主のことばから目
を離さないこと、主と真に しっかりつながっていることである。 そのためにも主の御心を知る
ために聖書を読み、祈っていくこと、そして主と主のことばの御前にへりくだり、聖霊の流れに
乗っていくことである。 そして主が自我を砕き、肉を切り取ってくださるような出来事が起こっ
たり、苦しい状況になったときには、神の御許しによらなければ何事も起こりえないと認め、た
だ主と主のことばを握っていくことをしていくなら、練られた品性が心の奥から漂う者、尊い器
に主が変えてくださるであろう。 日々、へりくだって神とともに歩んでいけるようになりたいもの
である。

★旧約聖書 詩篇 104:34
       私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。

★旧約聖書  詩篇 78:1
      私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。

★旧約聖書  詩篇 116
:2
   主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう




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