めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年3月13日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<どのようなタイプでも主に素直な者が愛される>



★旧約聖書 詩篇 11:7
   主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

★旧約聖書 箴言 13:13
   正しいことばは王たちの喜び。まっすぐに語る者は愛される。

●「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」ヨハネによる福音書11章5節
書かれている。 イエスに愛されている兄弟姉妹は幸いである。 この3人の兄弟姉妹はどうし
てイエスに愛されたのであろうか? 彼らの様子についてはルカ10章ヨハネ福11章、12章
書かれている。

イエスたち一行が旅を続けているうち、3人の兄弟姉妹が住んでいるベタニヤの村に入られ
た。 このとき、喜んでイエスたちを家にお迎えしたのは長女のマルタだった。 しかしマルタは
もてなし(奉仕)に忙しく動き回っているうち、イライラして気が落ち着かず、イエスや妹のマリヤ
を非難してしまった。 また、愛する弟のラザロが死んで間もないときでも、イエスが近くまで来
られた.ことを聞くと、イエスを出迎えに行くなど気丈に振舞い、現実的な対応に非常に長け
た行動的な人であった。 過越の祭りの六日前にベタニヤでの晩餐のときにもマルタは給仕を
していた。 イエスの教えもよく理解して、信仰も堅かった。(ヨハネ福11:23,24) マルタは外向
的な人、行動するタイプである。

一方、妹のマリヤはイエスたち一行が家に入られると、もてなし(奉仕)より、イエスの足もとに
座ってイエスが語られることばに聞き入った。 また、弟ラザロを亡くしたことが相当ショックで
マルタが「先生(イエス)がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と言われるまでその場
から動けなかった。 しかし、イエスが自分を呼ばれていることを聞くと、すぐに立ち上がって、
イエスのところへ行った。 そして、ラザロの死という現実に、まだあきらめきれない心情でイエ
スの足もとにひれ伏した。 自分の悲しみと絶望を、そのままにイエスの御前に出している、い
わば正直になっている。 また、マリヤはイエスの足に香油を塗った。 葬りの備えのためであ
る。 そして、その香油をぬぐうために、人前で髪の毛でぬぐった。 マリヤは内向的な人、思
索するタイプである。 

末のラザロについては、彼の性格がわかるような記述はない。 彼は病気になり死んだが、イ
エスによって墓から実際、よみがえらせていただいた。 その後、ベタニヤでの晩餐のとき、大
ぜいのユダヤ人の群れが、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るために来
ており、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていたという。 これらから伺えるの
は、実際、病気であったが、罪が関係して信仰が弱くなった者、そして霊的に死んだ者としての
たとえとして見ることができる。 そのような者が主のあわれみによって起き上がり、イエスとと
もに食卓の席に着いている。 大ぜいのユダヤ人が見に来ても動じず、えらそうにせず、何事
もなかったような・・・そんな苦労知らずのひょうきんな感じも受けるのだが? いずれにして
も、マルタやマリヤとは違ったタイプのように思われる。 

さて、いずれにしてもイエスは、この3人を愛しておられた。 この3人に共通するところは、イエ
スへの愛が純粋だったということではないだろうか。 行動派のマルタも、思索派のマリヤも
ひょうきんなラザロも裏表なく心からイエスを愛していた。 マルタのイエスへの愛は、もてなす
こと(奉仕)に現れ、マリヤのイエスヘの愛は、みことばに聞き入ることに現れ、ラザロのイエス
への愛は「イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた」という態度に現れてい
る。 (ラザロの場合、的確な表現が見つからないが)

神は人をひとりひとり違うように造られている。 確かに、原則は、主のことばを聞くことを第一
にすべきであるが、イエスはマルタのもてなし(奉仕)を否定はされなかった。 「足もとに座る」
という言葉は、弟子となるというような意味合いがあるらしい。 マリアが主の足もとに座るとい
うことは、イエスの弟子となりイエスの言葉を聞いていた、ということになるという。 そうである
なら、イエスがマルタをたしなめたのは、それに対して腹を立てていたからであると言えよう。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Tコリント12:27)」
と書かれている。 からだには手、口、足、目、耳・・・などと各器官、各肢体がある。 そのよう
にひとりひとりに違いがある。 各器官、肢体には特質、個性、タイプがある。 我々はみな一
様ではない。 マルタのようなタイプ、マリヤのようなタイプという両表現とも、必要である。 清
められる必要はあるが、価値がある。 

いずれにしても、どのようなタイプ、性格であっても、純粋に心から主を愛する者を、キリストは
愛してくださるということである。 いよいよ我々は、素直になり、主が望まれたとき、主に望ま
れるもてなし(奉仕)をし、主の御前にへりくだり、主の足もとで主のことばに聞き入っていきた
いものである。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 12:4、5
   一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じよう
   に、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官
   なのです。

★新約聖書 第一テサロニケ人への手紙 1:4
   神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知って
   います。



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