めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年2月20日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<クリスチャンがおるべき所、すなわち主のもとにとどまり続ける>



★新約聖書 第一ヨハネの手紙 2:28
   そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われると
   き、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
★旧約聖書 詩篇51:17
   神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさ
   げすまれません。

旧約聖書の第一サムエル記に登場してくるサウルはイスラエルの初代王である。 サムエ
ルから王として油を注がれた当初は、へりくだっていたようである。(Tサムエル9:21、10:22
) 
しかし、王になってからまもなくして、サウルの高ぶりの兆しが見えてきた。(Tサムエル1
3:3,4
) 高い地位と権力に人は弱いものである。 その人の本心が神の前でのへりくだりがな
いと必ず高ぶることがサウルを通してよくわかる。

ペリシテ人との戦いでも、サムエルに、神が何を言われるかを聞くから、ギルガルで7日間待つ
ように言われていたにも関わらず、与えられていない認職、祭司の務めを行なってしまった。
(Tサムエル10:8、13:9) また、アマレクとの戦いで、聖絶せよと命じられていたのに、値打ち
のないものだけを聖絶し、アマレク人の王アガクを生け捕りにするという罪を犯した。 神への
反逆である。 しかし、このときもサムエルから詰め寄られると言い訳と弁明をした。 常にサ
ウルは自分の威信を保つことに懸命だった。 

サムエルを通してサウルに主の霊が下ったが、ついに神はサウルを王位から退けられた。 
するとサウルから主の霊が去った。 主の霊が去った後は、サウルの性質から悪霊が好き放
題、働いた。 サウルは恐れや不安に襲われ、ダビデに対しては一種の被害妄想に陥り、ダ
ビデを殺害しようと執拗に追いかけた。 当然、神はサウルには語られず、霊媒をする女に頼
るという始末。 ますます悪くなる一方だった。 主の霊が離れて行く恐ろしさは ここにある。

旧約時代は、神の霊は、神が選ばれた人々の上に、神の計画が遂行されるために注がれ
た。 イエス・キリストが来られてからは、十字架の死と復活を通して、人の内に神の霊(聖霊)
が住んでくださるようになった。(ヨハネ福14:23) しかし、聖霊が悲しまれるようなところでは、
主はみわざを現わすことができない。 聖霊は働くことができない。 郷里の人たちの不信仰
により、イエスが郷里で何一つ奇蹟を行なうことができなかったのと同じである。 

イエス・キリストを信じる者が本来、常におるべきところは、主のところである。 悪霊が真のク
リスチャンを攻撃することは、神によって許されている。 サタン、悪霊といえども神の御許しな
しには何もすることができない。 それなら何故、人に悪影響を与える悪霊を神は放置してい
るのか?何故、世の中は悪くなるのか? という質問を聞いたことがある。 その答えは聖書
によるならば、神はご自身の子を試されるからである。(ヘブル12章) 試練や訓練によって神
の子を鍛え、清めておられるのである。 また、この「世の君」はサタンであるゆえ、神が定め
られた時まで、神の許しの範囲で働く。(ヨハネ福14:30) 「主はすべてのものをこ目分のため
に造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた(箴言16:4)
」と書いてある。 また世の中
が悪くなってきたのは、ひとことで言えば人間の欲のせいである。

要は、神が定められた神のご計画を、神ご自身が遂行されている。 サタンや悪霊どもはその
ことを重々、知っている。 だから与えられている期間、必死に一人でも多くの者を道連れにし
ようと躍起になって様々な方策をもって働いてくる。(Tペテロ5:8) サタンの性質の一つに「一
人で滅びるのは嫌!誰かを道連れにしてやる!」である。

人は思ったことを言葉や行動に表したりする。 人は何らかの基準をもってそれらの言葉を発
し、行動をしていることが多い。 その基準が自分であったり、偉人であったり、本、友、・・と
様々である。 しかし、神、主イエス・キリスト以外の基準には、背後でサタン、悪霊が働く恐れ
がある。 そして、人は知らず知らずの内に、神が定められた道ではない道を進んでいるとい
うことがある。 その道では天の御国へは到達しない。  

だから、我々がまっすぐに天の御国へ向かって歩んで行くためには、どうしても主の所に留ま
る必要がある。 主と交わりをしながら、主の語りかけ(直接なり、もしくは人を通して、聖書を
通して・・)を聞きながらでなければ、まっすぐ進むことが出来ない。 「人の目にはまっすぐに見
える道」
であっても「その道の終わりは死の道である」ことがある。(箴言14:12) 

サウルの生涯を見ると、サウルは主との交わり、主からの語りかけがなくなり堕ちていった。 
それらの原因は罪であり、サウルの場合は、自分の威信を保つこと、虚栄、ねたみ、傲慢など
であった。 自分の功績、自分の気持ち、自分のことだけを考えて・・自分を優先する者は、サ
ウルが辿った道を行く可能性がある。 主につながることの重要性は、昔も今も変わりない。 
主との交わりが持てる、主からの語りかけを聞くことができるのは、キリストのうちにとどまって
いるからである。 

旧約聖書の箴言3:6に「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなた
の道をまっすぐにされる」
と書かれているが、「主を認める」とは、主のもとに留まり、主のこと
ばを信じ、主のみこころに従うということである。 そうするなら、いくら悪霊が攻撃してきても主
の御許しの範囲だけで、必ず訓練、試練には終わりがあり、苦しみも痛みも主は益にしてくだ
さることを心の奥で信じることが出来る。 また、主のもとに留まっての訓練、試練のときに生じ
る苦しみは、主は、自分の肉を切り取り、自我を砕く道具にしてくださることを握ることができ
る。 我々は主を離れては何も出来ない。(ヨハネ福15:5) すべては主の御手の中にある。

「神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。(ローマ8:14)」 まことの神、主イ
エス・キリストを基準にして生きる者、聖霊の導きに従って歩む者はだれでも神の子であるとい
うことだ。 我々は日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだってキ
リストの真実に預かれるよう、また主に頼り、祈り求めてキリストの愛の中に留まっておきたい
ものである。

★新約聖書 エペソ人への手紙 4:30
   神の聖霊を悲しませてはいけません。

★新約聖書 第一テサロニケ人への手紙 5:10
   主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主
   とともに生きるためです。




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