めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年1月23日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<キリストの元に返り、留まり続けることを主は望まれている>



★旧約聖書 ホセア書 12:6
   あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。

★新約聖書   ヨハネによる福音書 15:5
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
   中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
   たは何もすることができないからです。

●イエスがこの地上に来られていた当時のイスラエルでは、ユダヤ人とサマリア人は反目し
合っていた。 サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、民族的にも宗教的にも分かれて
いた。 ただ、ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数
記、申命記)
を正典としていたので、らい病人に関しては、レビ記13章45~46節「その人はひと
りで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」と
書かれている通りにしなければなら
なかった。 

ルカによる福音書17章に10人(ユダヤ人9人、サマリヤ人1人)のらい病人がイエスによってい
やされたことが記されている。 あるときイエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤ
の間を通られた。 本来属していた共同体から切り離されて、暗い日々を送っていた彼らに、
らい病の者に手を触れ、いやして下さるイエス・キリストのことが伝わってきた。 彼らはキリス
トが来られることを聞いて、一緒に遠くから「あわれんでください」と声を張り上げて叫んだ。 
反目し合っていた民族だが、らい病人たちの苦しみは同じだった。

イエスは「自分を祭司に見せなさい(ルカ17:14)」と言われた。 当時は、この病は律法の規定
に従って、宣告するのも、完全な清めを宣言するのも、祭司の役割だった。 祭司によって「清
め」の儀式をしてもらってから、社会復帰となっていた。

イエス・キリストのことばに従って10人は祭司のところへ向かった。 彼らは行く途中で「いやし」
を体験した。 ところがサマリヤ人1人だけが、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 
後の9人のユダヤ人は祭司のところへ行った。 後で
イエスのところに感謝するために戻ってきたかどうかは記されていないが、このとき何を最優
先したかによって、その人のキリストに対する信仰がどの程度かがわかる。 

ことわざで「おぼれる者はわらをもつかむ」という言葉がある。 その意味は「困難に直面して
いる者は、手段を選ばず、頼りにならないものでも必死にすがりつこうとすること」だが、彼らに
とって、イエス・キリストは決して頼りにならないものではなかった。 むしろ、ただイエスのこと
ばを権威ある「神のことば」と信じて行動を起こしたと思われる。 その信仰は、ほめられるべ
きものであろう。

しかし、いやされたとき、神のみわざを体験したとき、見たとき、・・どうするかが問われることと
なる。 全く元の生活に戻ることを主は望んでおられない。 推測の域ではあるが、9人のユダ
ヤ人たちは、いやされたことがわかったとき、ますます祭司のところへへ行く足を早めたので
はないだろうか。 そして祭司からの清められたことのお墨付きをもらって、元の生活、おそら
くユダヤ教下での生活に戻ったことと思われる。 

イエス・キリストが彼らに与えようとしておられたのは、いやし以上に大切な「キリストの救い」で
ある。 そして、この救いはイエス・キリストの元にある。 キリストの元に返ってきた者だけが
受けられるものである。 「あなたの信仰が、あなたを直した(救った)のです。」と言ってくださ
る。 主に直接、このように言われることほど救いの確信の強いものはない。 また真の救い
を得た者は、主の元に留まり続けるであろう。 主の元に留まり続ける者が、主に従っていくこ
とができる。 主に従って行った先に永遠の天の御国がある。

主イエス・キリストは弱り果てて倒れている者を「かわいそうに」と思われ、いやしてくださるお方
である。 いやしというとき、体のいやしだけでなく、心のいやしもある。 主が望まれているの
は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進み(Uペテロ3:9)」「日々自
分の十字架を負うて」
主に従って来ることである。 主は群集のクリスチャンではなく、ご自身
の弟子として主に従うクリスチャンを望んでおられる。 

通常、クリスチャンと呼ばれてもキリストの元に返っていない場合があり得る。 主の元に留ま
らず、ユダヤ教の律法に固執した9人と同じようにキリスト教の教えに固執して聖書のことばを
行なっている、主の御心を行なっていると思い込んでいるということがないわけではない。 キ
リスト教の教えは大切なものである。 クリスチャンであるなら、決してなおざりにしてはならな
い。 しかし、それ以上に大切なのは、主の元に返り、留まって、主の御声を聞くということであ
る。 主の元に留まっているなら、主が御心を語ってくださるだろう。 我々は、キリストの元に
返り、留まっている信仰に立っているかどうか、吟味してみる必要があるかもしれない。(Uコリ
ント13:5) 

とにかく日々の生活において、主の元に留まって、主イエス・キリストを最優先する者となりた
いものである。 そのためにも我々がすべきことは、日々絶えず、主イエス・キリストから目を
離さず、主と主のことばの御前にへりくだること、絶えず主の御心を知って祈っていくこと、聖霊
の流れに乗ってくことであろう。 

★新約聖書   ヨハネによる福音書 8:12
   イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して
   やみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

★旧約聖書 イザヤ書 57:15
   
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられ
   る。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく
   だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。





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