めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年12月12日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主の足元にへりくだることが主を愛し、主を信じることである>


★新約聖書  第一コリント人への手紙 13:13、14:1
   こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれている
   のは愛です。  愛を追い求めなさい。

★新約聖書 第一ヨハネの手紙 5:3
   神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

ルカによる福音書7章36節〜50節の話し。 パリサイ人シモンがイエスを食事に招いた。 す
ると、その町のひとりの罪の女が、泣きながらシモンの家に入って来て、イエスのうしろで御足
のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。 
シモンはそれを見て、心の中で思った。 「イエスが、真の預言者なら、この女を見抜けるはず
だ・・」。 当時、正しい人は、罪人に触られることも忌み嫌っていたからだ。

すると人の心の奥底までも知り尽くしておられる主は、金貸しのたとえを話され、「借金を多く帳
消しにしてもらった者と、少なく帳消しにしてもらった者とでは、どちらが金貸しを多く愛する
か?」とシモンに尋ねられた。 そして続けて、「この女の多くの罪は赦されている。 多く愛した
からだ。 少ししか赦されない者は、少ししか愛さない」と女の赦しの宣言をされた。 そして
「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」と女にいわれたという話しである。

さて、この箇所でよく学んできたことは、「罪の赦しと愛」である。 当時は、サンダル履きである
ため、旅人を家に招く時は、足を洗う水を出し、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、という
のは当時の礼儀だった。 しかしイエスを招待したシモンはそれらをしなかった。 心から歓迎
していたわけではなかったようだ。 

律法を厳格に守っていると自負し、自分は「正しい」と思っていたシモンは、この女のことを、罪
深い女だと見下し、その行為を批判的に見て裁いていた。 同時にその女の行為を黙って受
けておられる主イエスをさえも、裁いていた。 シモンにとっては、自分が赦される必要性も感じ
ていなかったようだ。 しかし、女は悔い改めと愛の表明からくる自分の行為を受けてくださる
イエスを愛し、感謝し続ける行為をした。 イエスは、そのような女をほめただけでなく、罪の赦
しの宣言までされた。 

「多く赦された者が、多く愛する」、だから「主に多く赦されることと、主を深く愛すること」とは関
係があり、聖書からするとこれは信仰の原則と言えるかもしれない。 多く赦されたという自覚
を持つほうがその喜びは大きく、赦してくれた主に対する感謝は計り知れないほど大きい。 そ
の恩を決して忘れず、いつまでも多く愛し続ける。

ただ「多く赦される、少し赦される」というのは、罪が多かった少なかったというわけではない。 
自分の罪を量ではなくて、質として深さとしてどれだけ自覚しているかである。 ここでも、シモ
ンとこの女の違いは、自分の罪をどれだけ深く自覚しているかどうかである。   

また、この箇所で教えられることは、罪が赦されることと主を愛することが関係があるように、
主を愛することと、主を信じることは関係があるということである。 この女は、自分の涙でイエ
スの足をぬらし(洗い)、髪の毛で足をぬぐい、足に口づけし続けた。 イエスの足元でイエスの
足に自分の愛を表明した。 それはこの女がイエスの御前でへりくだっている姿である。

そのような女にイエスが言われたことばは、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」と、信
仰に関することばだった。 聞くところによると「あなたの信仰が、あなたを救った。」という日本
語の言いまわしはないそうである。 もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえ
に、私(イエス)があなたを救う。」になるそうだ。 

「愛する」ということこそ、本来あるべき、聖書の中心であるが、この愛は「主を愛する」「神を愛
する」「キリストを愛する」である。 そして、ただ単に主を愛するのではなく、深く主を愛し、深く
主を信じる者は、罪を深く自覚している者と言える。 そして深く罪を自覚する者が主の足元
で、この女のようにへりくだり続けているならば、主から「あなたの信仰が、あなたを救ったので
す。
」と言われ、救いの深さを味わうことができる。

主の足元でへりくだっている、それが主に多く赦されること、主を深く愛すること、主を深く信じ
ることであり秘訣である。 そして、主が我々に望んでおられることである。 主を愛する者は、
主の言われることばを守り行なうことができるようになってくる。 なぜなら、へりくだっているな
らば、自分は何をすべきか、主が望まれることは何かがわかるだけでなく、できるように主が
導いてくださるからだ。   

我々は、主の御前に真にへりくだり、いよいよ深く主の赦しを知って、深く主を愛し続けていき
たいものである。 神のみわざを見て、神の栄光をほめたたえていきたいものである。

★旧約聖書  詩篇 116:1
   私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

★旧約聖書 詩篇 119:97
   どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いと
   なっています。



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