めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年10月3日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<時代が違ってきた>


★新約聖書 ルカによる福音書 5:36〜39
       イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂
   いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物
   を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
   また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれ
   ば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまい
   ます。 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
   また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良
   い。』と言うのです。」

●イエスがキリスト(救い主)として公に立たれ、十字架にかけられるまでの3年半は、大艱難
時代の3年半の時代に関する予表とも言われている。 聖書では、3年6ヶ月とか42ヶ月、1260
日、ひと時とふた時と半時といったいろいろな表現をしている。 すなわち3年半は終末のクラ
イマックスの時と言えよう。 

イエスが12弟子を選ばれ、彼らに「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威
(ルカ9:1)
」を授けられ、彼らを遣わされたのは、3年半の前半であった。 その時には、「お
金、袋、パン、杖は持って行くな、下着は1枚なら良いが、2枚は持って行くな。」と言われてい
る。 これらの物は、たとえとして見ることができる。 お金は、そのまま「お金」であり、袋は、
金や銀を入れる袋として出て来る(箴言7章、創世記43、44章)。すなわち「お金」に関係する。 
パンは、「わたしがいのちのパンです(ヨハネ福6:35)」とイエスが言われたように、神のことば
をさすたとえである。 また剣も「御霊の剣(エペソ6:17)」とあるように神のことばをさす。 

杖は、歩むとき人を支え助けることから「牧師、教師」のことである。 下着は、英語の聖書(KJV
訳)には、coat(コート、表面をおおうもの)とあり、「turn one's coat=裏切る; 改宗する」という
使い方もあることから、無理があるかもしれないが、キリストでおおわれた「教団、教派」のこと
を言っているかもしれない。

さて、イエスは当初は、持つな、と言われた財布、袋、パンを十字架にかけられる前、二階の
広間の席では持て、と言われた。 「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに
旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんで
した。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のな
い者は着物を売って剣を買いなさい。(ルカ22:35、36)」
と。 

本来、主に仕える献身者、牧師や教師などは、神からの使命によって働いている。 当然、報
酬は受け取ることが出来る。 「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。(申命記25:4)」
と聖書でも神がそのことを語っておられる。 長年、多くの教会は献身者の生活をサポートして
きた。 そのように主が養ってくださった。 

しかし、主のことばからすると、終末もクライマックスの時になると、今までの教会のあり方とは違
ってくることがあり得るようだ。 献身者に与えられた権威を用いたくても用いることができな
くなる時代が来るのかもしれない。 だから主の働きをしているだけでは生活できない。 生活費
は自分で用意せよ、というようなことをイエスは語っておられるのではないだろうか。 もちろん
全ての献身者に当てはまるわけではないが。

また、「着物を売って剣を買いなさい」と言われているが、新しい皮袋、古い皮袋(ルカ 5:37)
新しい着物、古い着物(ルカ 5:36)同じように書かれていることから、着物は「教会」のことを
たとえているようである。 そして、「着物を売って剣を買う」とは、新しい着物を売る、古い着物
を売るとの言及はないが、要は「みことば」を持つ重要性を語っておられると思われる。 いつ
の時代も、「みことば」を持つことは重要である。 

今まで、みことばは、教会で教えられることが多かった。 また、自分で聖書を読んで、その中
からみことばを自分のニーズに合わせて選び取ったり、与えられたり、先輩のクリスチャン、牧
師、教師から、みことばの解釈を聞いたりしていた。 そのことは大切なことではある。

しかし、今後は、主から直接、「主のことば」を与えられることが重要であることを主はこのとこ
ろで示唆しておられるのではないだろうか。 牧師や教師、クリスチャンの兄弟姉妹からみこと
ばを聞き与えられても、それを 改めて主から直接、受ける、与えられることが重要かと思わ
れる。 それは、与えられたみことばを自分の霊の深いところに、主に入れていただくというこ
とである。 心の奥底に刻み込んでいただくということである。 与えられたみことばを主に成就
していただく、それは、みことばを悟ることであり、その人を変える。

教会も霊も教えも「古い」から「新しい」へとすっかり様変わりしなくてはならない時になったよう
である。 終末もクライマックスに突入するときには、それまでの教会のあり方では通用しな
い。 今やそういう時代に突入しつつあるようである。 いや突入したのかもしれない。 しか
し、それらをうたい文句に巧妙に逸らす働きも盛んなようである。

クリスチャン一人一人が、本当に本当に真から古き人が終わって本当の新しい人に変わっ
て、主イエス・キリストを第一にして生きていかなければまっすぐに進めないときになった。 
神からことばをいただくために、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前に
へりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っていきたいものであ
る。

★新約聖書  第二コリント人への手紙 5:17
   だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
   て、見よ、すべてが新しくなりました。


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