めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年8月8日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神の御心を「求めよ。そうすれば与えられる。」>


★新約聖書 ヨハネの第一の手紙 5:14
   わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事で
   も神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。

★新約聖書 ヤコブの手紙 4:3
     願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

マタイ5章〜7章にイエスが語られたことば、山上の垂訓がある。 その中に「求めよ。そうす
れば、与えられるであろう。(マタイ7:7)」
ということばがある。 山上の垂訓は、大勢の群集や
弟子たちが聞いていた。  

聖書は人が主イエス・キリストを受け入れてクリスチャンになった後、成長する必要性を語って
いる。(Tコリント3:6、Uペテロ3:18) 「求めよ」ということばについても成長すべきである。 
主が当初語られたことば「求めよ」を聞いて大勢の人たちがイエスのところに来た。 そして主
に、病をいやされ、悪霊は追い出され、多くの奇蹟を見、体験させていただいた。 人々は、
「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神
をほめたたえた。(ルカ7:16)
 しかし、結局、多くの人たちが「十字架に付けよ!」とイエスに
背を向けた。

このように見ると「求める」ということも、ある意味、求める者が成長することが必要である。 
ハネによる福音書16:24
で主が「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことは
ありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちた
ものとなるためです。」
と語られたことが記されている。 この語られたときは、最後の晩餐の
部屋を出てオリブ山へ向かっている途上であった。 イスカリオテのユダが裏
切るために去っ
た後、11弟子に語られた。

イエスがキリストとして公に立たれ、伝道を開始されてまもなく語られたときには、大勢の者が
「求めよ。そうすれば、与えられる」と聞いた。 そして十字架にかけられる直前の「求めよ。
そうすれば受ける
」は、11弟子だけが聞いた。 

主が弟子たちに語られたことは、弟子たちが自分だけのために求めるのではなく、一言で言う
なら「主のために求める」「主のために生きる」、すなわち「主のみこころを求める」ということで
ある。 だから主に「求める」とき、「主のためか?」「主が望まれることか?」「主が良しとされ
ているか?」などと自分に問うてみることは大切であろう。

「主のため」と求めた時、その求めたものが与えられない場合もある。 パウロの場合、肉体
のとげがあった。 これは多くの聖書学者は肉体的病と解釈している。 いずれにしてもパウロ
はこの肉体のとげを去らせてくださるようにと三度、主に祈り求めた。 しかし主の答えは「わ
たしの恵みは、あなたに十分である。」
であった。 その肉体のとげはパウロが傲慢になるのを
防いだ。(Uコリント12:7 ) 求めたものは与えられなくとも、求めた者に必ず、答えをくださる。

主イエス・キリストを信じて間もない時には、主に祈り求めることにおいて、主の御心が云々な
ど関係なく、むしろ、ご利益信仰的なことが多いかもしれない。 しかし主はそれを否とされな
い。 主キリストを信じた者は、赤ちゃんが生まれたと同じようなものである。 赤ちゃんはお腹
がすいたら泣き、おしめが濡れて気持ちが悪いと泣き、暑すぎたり寒すぎたりしたら泣く。 そ
うして要求を知らせる。 それに親は応えて、乳をやったりおむつをかえたり・・・。 成長してく
ると何でもかんでも泣いて求めるのではなく、ちゃんと言葉でもって要望を伝える。 また、しつ
けを受け、いろいろ教えられて、何を求めたらいいか、何を求めたらいけないかを分別できる
ようになってくる。 
このように我々の信仰も主に求めることも同様である。 自分中心に考えるのではなく、主イエ
ス・キリストを中心に考える、ことは大人の考え方である。(Tコリント14:20) 一人一人のこと
をよくご存知の神は、我々に求めさせたいことがある。 主は、一人一人に本当の持続する喜
びと平安を得させ、愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛(親切)、善意、忠実(誠実)、柔和、自
制という御霊の実を結ばせたいと願われている。 また一人一人に与えようとしているものを
具体的に用意しておられる。 それを知って求めることを望んでおられる。 救われたら自動的
に御霊の実が結べるのではない。 御霊の実を結ぶためには、その人に対する神の訓練、試
練などの体験やその人の本気(真実)の求めが必要である。 

成長してきたならば、神の御旨を少しずつ主から教えられる。 日々、キリストと真の交わりを
していくうちに、求めるときに何を求めたらいいのか、何が主の御心、御旨なのかが少しずつ
わかってくる。 このとき、主から直接、教えられる場合もあるが、主が立てた権威、牧師、教
師などを通して、その人に応じて具体的に教えられ、わかることも多い。 
我々は日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリスト
との交わりを深くしていきたいものである。 主の御心を知って、主が与えようとしてくださって
いるものを余すところなく受け取っていきたいものである。  そして聖霊の流れに乗って、主
の導かれるままを進んでいきたいものである。

★新約聖書(口語訳) ローマ人への手紙 14:8
   わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるに
   しても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

★新約聖書(口語訳) ローマ人への手紙 12:2
   あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造り
   かえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか
   を、わきまえ知るべきである。



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