めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年8月1日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<人生の苦しい経験、体験に神に介入していただくことが大切>


★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:8,10,11
   もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、
   ほんとうの子ではないのです。・・・なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うま
   まに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さ
   にあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいも
   のではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された
   人々に平安な義の実を結ばせます。

★旧約聖書  詩篇 66:10~12
   神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。 
   あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。 あなたは人々
   に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通り
   ました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。

●人がこの地上に普通に生きているなら、様々なことが起こりうる。 人はたった一人でこの地
上で生活することは難しい。 家族、親族、友人、近所の人、・・・何らかの人と人とのつながり
がある。 人生における様々な出来事には幸いなこともあれば不幸なこともある。 苦しいこと
に関して、苦しみの原因はいろいろあるが、人が関わっていることが結構多いのではないだろ
うか。 そういうことを通して人はそれまで気づかなかった自己を認識し、自分自身と向き合っ
て、忍耐することを身につけたり、自分を少しでもいい方向へ変えていこうと努力する人も多
い。 中には、表面上、その場が穏やかに過ぎればよいと自分自身と向き合うことをせず、よく
言えば楽天的に過ごし、悪く言えば、軽く過ごす者もいる。 いずれにしても人は苦しい経験、
体験をしていくことは悪いことではない。 昔から「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と言われ
ている。  

クリスチャンになる前の苦労、苦難、困難、クリスチャンになってからの苦労、苦難、困難は、
その人が真に主によりすがるなら、決して無駄にはならない。 主はその人を肉眼では見えな
いが、キリストの体のどこかの器官として組み入れてくださっている。(ローマ12: 4,5) だからそ
の器官の働きをするようにとそれぞれ人に個性や賜物、才能が与えられていると思われる。 
ただそれらの苦難、困難に神が介入されなければ、その人の基準の学びと悟りに留まってし
まう。 人の基準と神の基準は遥かに違う。 本来、神には愚かさなどないが、もしたとえあっ
たとしても、 「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い(Tコリント1:25)」。  

人が生まれつきのそのままの状態では、賜物も才能も個性も神の望まれる活かし方ができな
い。 生まれつきのままだと肉が旺盛で自我も強い。 賜物や才能が大きければ大きいほど、
きちんと自我が砕かれ、肉が切り取られていなければ、神から離れていく可能性がある。 だ
から神は人を、神が用いることができるように砕いたり、削ったり、整えたりして清める。 そし
てそのことは多くの人の場合、生まれる前から始まっている。 真のクリスチャンになる前から
始まっている。(エペソ1:4 ,ガラテヤ1:15,ヨハネ福15:16) 

そして時が来て、真のクリスチャンになり、その人が聖霊の導きに素直に従うようになったと
き、それまでの苦労、困難はすべて学びだけでなく悟りとなる。 悟りとなる、というのは、キリ
ストが浸み込み、主の御心を正しく知っていくようになる、ということである。 要は主が益にし
てくださるということである。 キリストの一つの器官として存分に働きができるようにしてくだ
さる。 もちろん我々は、自我が砕かれたから、肉が切り取られる経験をしたから、もう完全と
いうのではない。 あのパウロが「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になって
いるとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。(ピリピ3:12 )」
と言
っている。 我々はまだまだ肉が切り取られる余地は大いにあると考えられる。 

真のクリスチャンと書いたが、「クリスチャン(=キリストに従う者)」と言っても、人から見たクリ
スチャンと神から見られたクリスチャンがいる。 教会へ行っているから、所属しているから、
聖書を持っているから、日曜礼拝は欠かさず出席しているから、奉仕をしているから、・・・とか
は確かに大切なことではある。 しかし、それだけで判断できるのは人から見たクリスチャンで
ある。 神から見られたクリスチャンは、神が見られて聖霊の流れに乗っている、つまり聖霊の
導きに従っている、心の奥底から主の御前にへりくだっている、そういう人を神は「クリスチャ
ン」と呼ばれる。 主は外側ではなく、内側を見ておられる。 それも心の奥底を見ておられる。 
心の浅いところから出て来る言動ではなく、心の奥底から出て来る言動を見ておられる。 

聖書に出て来る登場人物でアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ノア、モーセ、ヨシュア、ダビ
デ、ヨブ、パウロ、12使徒などみな、苦難、困難、試練を通っている。 彼らにとって一つ一つの
苦難、困難、試練は、彼らの信仰が鍛え上げられるため、大いに益になっている。 ただ、ソロ
モンの場合、神から知恵や富、長寿、誉れを与えられ、世界中の人からも尊敬され、平和な国
家運営をしていたが、晩年、多くの妻たちによって、偶像礼拝へと心が向き、神から離れ去っ
た。 ソロモンの心が転じて、主を離れたため、神がソロモンの敵を起こし、害をなしたとは書
かれているが(T列王記11章)、ソロモンが練り鍛えられるような苦難、困難にあったという記
録がない。 このことからも、やはり人は神が介入されての苦難、困難、試練は重要であると
思われる。

いずれにしても主イエス・キリストの御前に真にへりくだっているなら、神が子(真のクリスチャ
ン)と見てくださって、訓練、試練を与えられる。 もうすでに火の中、水の中を通った者は、更
に主が豊かな所へ導かれるため、完全な者にしようと聖霊が働いてくださるであろう。 また主
が用いてくださるであろう。

我々は日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリスト
との交わりを深くしていきたいものである。 そして心の奥底にある主の喜ばれないものを教え
ていただき、主の前に正直になって、変えていただきたいものである。 そして聖霊の流れに
乗って、主の導かれるままを進んでいきたいものである。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:58
   わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の
   業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない
   ことを、あなたがたは知っているはずです。




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