めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年7月25日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<心の奥底まで世は浸透する>


★新約聖書 マタイによる福音書 7:18~21
   良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもでき
   ません。 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。・・・・わたし
   に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられる
   わたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 

●イスラエルの3代目の王ソロモンは今から約3千年前、ダビデの後継者として神が選ばれ
た。 ギブオンで、神は夢の中に現れて、「あなたに何を与えようか。願え」と言われた。 ソロ
モンは自分のために長寿や富、誉れを求めず、イスラエルの民を治めるための知恵を求め
た。 神はそのことを良しとされ富、長寿、誉れも与えると約束された。

その後、神のことば通りになった。 また、パロの娘を娶って、大国エジプトとの平和な関係を
維持した。  政略結婚を繰り返し、またその妻たちの信じた神々や偶像を国に入れた。 そ
うすることで王国の平和と安泰を維持しようとした。 平和的な外交手段で共存する道を進ん
だ。 それは当時の政治の常道、常識的な方法だった。 またソロモンは神殿も建てた。 

ソロモンの繁栄は、神が与えてくださった物だけではなく、重労働や重税という民からの収奪と
搾取、世界の様々な財宝を集めたことなど人間的手段が入っていた。 すべてが神の祝福と
は言えなかった。

晩年ソロモンは神から離れ去り、偶像礼拝に向かうようになった。 多くの妻たちがソロモンの
心を転じさせた。(T列王記11:4) ただ、ソロモンは晩年になって初めてそうなったのではな
い。 王位継承、すなわち最初から、ソロモンには神から離れる要素が大いにあった。 

T列王記3章3節「ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高
き所でいけにえをささげ、香をたいていた。」
と書かれている。 しかし、夢を見て神から約束の
ことばをいただいた後、エルサレムで、主の契約の箱の前に立って全焼のいけにえをささげて
いる。(T列王記3:15)  「高き所」とは、基本的にはカナンの人の偶像礼拝の場所をいう。 
申命記12:1〜5では、異邦の民による礼拝所は破壊し、神が「ご自分の住まいとして御名を置
く」場所へ行くことが求められている。 

ソロモンの心に、異教に対する曖昧な部分があったと思われる。 またエジプトの王の娘を娶
ることについては、明らかに政略結婚という世の方法を選んだ。 世がソロモンの心の奥にま
で浸み込んでいたと思われる。 妻のために豪華絢爛な王宮を建てたりした。 

このように最初からソロモンが持っていた世を基準とする思い、主に喜ばれない彼の願いを、
そのままにして対処していなかったから、晩年になってそれがあらわになっただけである。 
ソロモンは神から与えられた知恵を、結局は自分の繁栄のために用いた。 そのようなソロモ
ンに、2度も主が顕現していさめられたにも関わらず、聴く耳を持たなかった。

主が求めておられたのは「あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしの
すべての命令を守り、これによって歩む (T列王記6:12)」
ということだった。 ソロモンは、神
から知恵も富も財宝も誉れも与えられ、神を知っており、神の恵み、祝福を体験して、世界一
の幸福者と呼ばれるにふさわしい人であった。それでも神から離れて行き偶像礼拝に陥った。 

マタイ7:22『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を
追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
と、その日には大
ぜいの者がイエスに言うが、イエスはその人たちに『わたしはあなたがたを全然知らない。不
法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
と宣告すると言われた。

ここで言われている主の御名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を多く行なった人たち
は、やはり神から主の働きのために賜物を与えられて、実際、主に用いられており、主の働き
をなしており、神の恵み、祝福を体験している。 それでもイエスから最後に、知らないと言わ
れ、不法をなす者ども、と言われた。

これらのことから、たとえ、ソロモンくらい、このマタイに言われる人たちくらいであっても、大丈
夫だ、と言えないなら、我々はもっと主によりすがって信仰も内面も主に点検していただくこと
が重要である。 心の奥底に世を基準とする自分、世に順応する自分、世を意識する自分が
潜んでいる可能性がある。 ソロモンもイエスに知らないと言われた人たちも表面では主の御
心を行っていた。 しかし心の奥底には世を対象にして頑として動かない自分が岩のように座
っていたと見受けられる。 また「世」は強く、深く人の心の奥底にまで浸み込んでくるもので
ある。

ガラテヤ人への手紙5:22御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自
であるが、世を基準とした世的な愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制があ
る。 人の心の奥底まで世が浸透し、その世をしっかり握って離さない自我が砕かれなけれ
ば、御霊の実を結ぶことができない。

もうすでにキリストは、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自
身をお捨てになった。(ガラテヤ1:4) 「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 
明らかにされたものは皆、光となるのである。(エペソ 5:1314)」
と書かれている。 だから我々
は、自分に正直になって、主に拠りすがり、心の奥底にまで浸み込んでいる「世」を取り除いて
いただくことが大切である。 またその「世」をしっかりと握っている自我が砕かれるよう、真に
主の御前にへりくだっていくことが大切である。 

今日、「世」は巧妙に人の心の奥底に忍び込んできている。 だからこそ絶えず「信仰の創始
者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」
主の御前にへりくだって祈り、キリストとの
交わりを深くしていきたいものである。

★新約聖書 ヤコブへの手紙 4:4
   貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
   世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 7:31
 世(this world)を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去



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