めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年7月11日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<主が建てようとしておられる教会>


★新約聖書(口語訳) マタイによる福音書 18:19,20
       また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で
       心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまた
       は三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。


★新約聖書 エペソ人への手紙 1:23
   教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ち
   ておられるところです。

●「教会」とはギリシア語のエクレシア「召し出された会衆」「集会・集合」という意味である。 さ
らにはその集合体、その共同体を指す。 また教会は、「キリストの体」、「キリストの花嫁」とも
言われ、「一人の生きている新しい人」である(エペソ2:15)

イエスが昇天するときの命令に従いエルサレムで待っていた弟子たちは、昇天から10日後、
聖霊に満たされた。 そこでペテロがエルサレムに集まっていたユダヤ人たちの前で、イエス
の死と復活について語り始めた。 ここが教会の始まりである。

初期の教会のありかたは財産を共有していた。(使徒行伝2章) 集会は、大きな建物(神殿な
ど)ではなく、弟子の家で行われていた。(使徒2:46) しかし弟子が増えるにしたがい、このあ
り方も難しくなった。(使徒6:1) 

その後、教会はローマ帝国の迫害や異端との闘争にも関わらず、ローマ帝国各地に広がって
いった。 紀元後380年、ローマ帝国を統一したテオドシウス1世が、キリスト教を国教と定め
た。 その後教理の確立、分離が始まったりした。 有名な宗教改革もその中の一つである。 

中世の教会では人数も増え、また神の威光を表現するために、より大きな教会堂、豪華絢爛
な教会堂を建設した。 この長い歴史の中で、教会=教会堂(建物)というように変わっていっ
た。 教会は、長い歴史の中で主が言われる教会とは、すっかり様変わりしたようである。 

今日、教会はそれまでと同じく日曜礼拝(主日礼拝)を守り、伝道し、奉仕をしている。 今日の
社会生活は多様化しているため、日曜日に仕事がある人たちも多いので、教会によっては日
曜日の礼拝を午前、午後以外に夕方にしたり、中には別の曜日に主日礼拝をする教会もある
という。(ローマ14:5) いずれにしても、今までの教会のやり方を受け継いで、ニーズに合わ
せるべきところは聖書のことばを探し、それに沿って変革したりと努力を重ねてきている。

しかし、聖書は終末になると、キリスト教会はフィラデルフィアかラオデキヤのいずれかである
という。 そしてラオデキヤの教会は「わたしの口からあなたを吐き出そう。(黙示録3:16)」
主から言われる。 実際、90年代あたりから、アメリカのリバイバル集会や聖霊の第三波系の
器と呼ばれるベニーヒン、ピーターワーグナー、ロドニーハワードブラウン、ロバート・シューラ
ー、ビルハモンなど偽預言者が活躍している。 HP「角笛」や「エレミヤの部屋」によると、彼ら
は聖霊を下していたのではなく悪霊を下していたという。 恐ろしいことである。 彼らは主から
吐き出されるであろう。

主イエスが建て上げようとされた教会は、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まって
いる所には、わたしもその中にいるのである
」と言われたように、主がそこに留まることができ
る教会である。 本来、イエスは「わたしの教会」(マタイ 16:18)と言われた。 「わたしがわたし
の教会を建てる」
と言われた。 主が言われる教会のたった一つの重要な必須の条件は、復
活されて今も生きておられる主イエス・キリストが、教会の真中におられるということである。

こんなことは当たり前のことであるが、今日、聖霊が留まることができない教会も多いようであ
る。 だから悪霊を下している集会、聖会に同意、協力できるのだろう。 クリスチャン一人一
人がキリストとしっかりつながって、何事も霊によって見て判断していかなければ、教会や人を
見ていたのでは逸らされる時代に入ったようである。

主が建て上げようとされている教会は、キリストの見えない体の中に入れられて、神から見ら
れたら一つとなっている教会である。 主が2人を教会の最低基準と示されたのは、愛し合うた
めには最低2人が必要だからであろう。 クリスチャンが単に自分の好き勝手で単独にあるの
は御心ではないが、様々な止むを得ない事情で一時、単独という場合もあり得る。 しかし、そ
ういう場合の単独の人は、自分勝手に単独になったわけではなく、神が何らかの訓練、試練を
その人に与えるためとか、何らかの神のご計画の中でのことである場合が有り得る。 だから
いずれ、主の時が来たら、「ふたりまたは三人が」となることができるであろう。

要は、キリストとしっかり結びついた者が「ふたりまたは三人」いるその真中に、生きておられる
主がおられるのである。 信仰歴が長いとか、奉仕を多くしているとか、歴史がある教会だから
とか、聖書に書いていることをきっちりやっているとか、日曜礼拝を決して休んでいないと
か、・・・すばらしいことではあるが、そうだからと言ってキリストにしっかり結びついているとは
言えない。 

本当に、主は生きておられる。 そして主は人の本音、本心を重要視される。 神は、心の底
からへりくだり、神を恐れ、主に結びつこうとする者に目を留めてくださる。 いよいよ、へりくだ
って主と主のことばに従っていきたいものである。 聖霊の流れに乗っていきたいものである。

★新約聖書 マタイによる福音書 16:19
  ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会
  を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 12:27
   あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。





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