めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年7月4日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<警告のことばを受け入れたら自分の内面に目を向ける>


★旧約聖書(口語訳) 詩篇 26:2
   主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。

★旧約聖書 ナホム書 1:2,3
       主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを
      保つ方。 主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道
        はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。

●神のことばを聞くこと、神のみわざを見ること、神のことば、神のみわざ(神がしてくださった
ことを)を体験することは、信仰を強くするのに大いに役立つ。 人の一生の間に、主の喜ばれ
る信仰生活を全うしようとするとき、様々な妨げと戦わなければならない。 また自我、肉といっ
た自分との戦いもあろう。  

そのような戦いの中で、サタンの巧妙なわなに陥ったり、この世が人の中に侵入、侵食してき
てクリスチャンが世的になったりしないようにと、いつの時代にも神は警告のことばを語ってお
られる。 ただこの神の警告のことばを聞いて受け入れても、ただそれだけでいいというわけで
はない。

そのことは、旧約聖書ヨナ書ホセア書からも学ぶことができる。 旧約の預言者ナホムの約
百年前にヨナの宣教によってニネベの町の人々は悔い改め、神の裁きを免れた。 あらすじ
はこうである。 イスラエルの預言者ヨナが異教の都ニネベへ行き、宣教することを神から命じ
られた。 ところがヨナは主のことばに従おうとせず、反対方向のタルシシュへと向かう船に乗
り込んだ。 すると船はヨナのせいで大嵐に遭遇した。  「私を捕えて、海に投げ込みなさい。
そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。(ヨナ書1:12)」
のことば通り、乗組
員たちはヨナを海に投げ込むと大嵐は静まった。  

海に投げ込まれたヨナに神は大きな魚を用意しておられた。 ヨナはその魚の腹の中で三日
三晩、過ごした。 神のことばに逆らい、神から離れた三日三晩は、ヨナにとっては苦難であ
り、悔い改めの時でもあった。

魚は神の命令通り、ヨナをニネベの陸地に吐き出した。 ヨナが「もう四十日すると、ニネベは
滅ぼされる。」
と警告するとニネベの人々も王も神を信じ、断食を呼びかけ、悔い改めた。 そ
して神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。(ヨナ書3:10)

ところが、神のあわれみと恵みによって裁かれなかったニネベを首都としたアッシリア帝国は
時間の経過とともに、勢力を拡大する中で、元の生き方に戻ってしまった。 神を忘れ、神に対
して逆らい、罪に陥り、悪に走り、傲慢になって再び残虐な侵略行為を侵しはじめた。 それは
元の生き方以上に悪くなっていった。 その為、ついに主は、預言者ナホムによってニネベに
対する激しい報復と怒りを宣告した。(ナホム書)

ナホム書
ではニネベの町が水浸しになっている様子が書かれている。 預言の通り、実際ニ
ネベ陥落の直前、ユーフラテス川が増水したといわれている。 水で表される、悪しき霊がニネ
ベを首都としたアッシリア全土を覆っていたようである。 

ニネベは一旦、神の警告を受け入れ、神の前にへりくだっても彼らの神への信仰が固められ
ておらず、内面(自我、肉:生まれつきの性質)が砕かれず、変わっていなかったため、サタン
からの様々な誘惑、攻撃、巧妙なサタンのわなが洪水のように押し寄せてきた時、やられてし
まい、ますます残虐、暴虐になっていった。

ナホムがニネベの滅びを預言した当時のアッシリアはとても滅びるなどとは考えれないくらい
勢力が強い状態だった。 しかし神は、現状がどうであれご自身が語られたことばは、必ず
成就される。 

今日の我々も聖書や人や様々なことを通して、正しい神からの警告や神のことばを聞き受け
入れることは大切である。 しかし、ただ聞いたからと言って、それで安堵してはならない。 警
告を聞き受け入れたならば、なお更、悪霊の洪水が来た時に、流されないように、自我が砕か
れ、肉が切り取られて 霊的に成長すること、霊で事や人を見ること、信仰が強められることに
心を向けていくことが重要である。 

聖霊に満たされたクリスチャンでも、悪霊からの攻撃や誘惑は常にある。 また故意の罪、隠
された罪がなかったとしても、悪霊につけこまれるような思いの一点をそのままにしておいたな
ら、そこが悪霊の攻撃や誘惑を受ける格好の的になる。 そこから悪霊が浸透して勢力を拡
大しようとしてくる。 そしてその人に罪意識を持たせないように巧妙に罪を犯させる。 また主
の喜ばれない思いを密かに持たせる。 そのような思いや罪を放置しておく期間が長くなると、
キリストから離れるような思い(信仰や救いに疑問)が充満し、その思いの通りになっていく。 

神の警告、神のことばを聞き受け入れ、様々な情報を知ったとしてもそれで大丈夫だと言うこ
とはできない。 キリストをまずよく知るということが必須である。 キリストとしっかりつながる
ことが必須である。 それらを妨げるものがやはり、自我であり肉である。 しかし神は愛する
子を整えるため、聖めるため、主の方法で、主のときに、主の方からそのための経験、体験を
与えてくださる。 試練、訓練が与えられたなら、へりくだって主によりすがるのである。 

神は常に、義であられるそのご性質のゆえに罪に対する厳しさはあるが、真底、悔い改め、主
に信頼する者に対しては「いつくしみ深い」方である。 日々絶えず、主イエス・キリストから目
を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っ
ていきたいものである。

★旧約聖書 ナホム書 1:7,8
       主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを     主は知ってお
       られる。 しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、主に逆らう者を滅ぼし尽くし、その敵をや
       みに追いやられる。



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