めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年5月30日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<良いこと悪いことに関わらず、人には通らなけれはならないことがある。>



★新約聖書  ローマ人への手紙 8:28
       神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
      のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:23,24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。 たといその人が倒れて
   も、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

●主はユダヤを出てガリラヤへ行かれるのに「サマリヤを通った」ではなく「サマリヤを通って
いかなければならなかった」
(But He needed to go through Samaria.)と記されている。(ヨハネ
福4:4) 
この言葉から、あえて主はサマリヤを通る必要があったことを窺い知ることができる。

南のユダヤから北のガリラヤに行くのに最短距離はサマリヤを通る道だった。 しかし、当時
の多くのユダヤ人たちは、その最短ルートを取らないで、遠回りになるだけでなく、ヨルダン渓
谷沿いという険しい道を選んだ。 とにかくサマリヤを避けた。

それは当時、ユダヤ人とサマリヤ人は交わりをしていなかったからである。 それまでの様々
な出来事の中で、宗教的にも民族的にも、いろいろなものが入り混じり、部族の純潔を失った
サマリヤ人に対して、純潔を重んじるユダヤ人たちは彼らを蔑視していた。 また蔑視された
側の憤りもあって、その対立、反目は相当に深刻なものだったからである。

そういうわけだから、まして男のユダヤ人のイエスがサマリヤの女に「水を飲ませて下さい(ヨ
ハネ福4:7)」
と声をかけることなど考えられなかったようである。 しかし主はサマリヤの女に会
いに来られた。 そして、イエスによってサマリヤの女は救いを与えられ、その町の多くのサマ
リヤ人も救われた。  すべては神のご計画であった。

一般のユダヤ人が避けたサマリヤの道を、主はあえて選ばれた結果、たった二日で多くのサ
マリヤ人がイエスを信じるに至ったということは、問題ありのところを通ったが、結果は大いに
益になったということであろう。 主のこととは全く同じようなことではないかもしれないが、そう
いうようなことは、案外我々にも有り得ることである。 起きた問題、出来事など、主があえてそ
れらを許し、我々が、そういうことに出くわす必要があったということが有り得るということだ。 

それらのことが たとえ不幸と思われるようなことでも必ず、後々には益になるということが有り
得る。 もちろん、自業自得による出来事や自我、肉による問題などもあると思われるが、ま
た結果は、主のように大きな益ではないかもしれないが、それでも、あえて主は人に「こんなと
ころを通らねばならなかった」というところを通さす可能性はある。 

当然、「こんなところを通らねばならなかった」という出来事、問題なりの時、神に介入していた
だいていなければ、結果を益に、ということは難しいであろうが、真剣に心の底から祈ってキリ
ストに介入していただいているなら、後々には必ず益となる。

著者は、今までの波瀾万丈といえる人生の多くの経験からつくづくそう思う。 主に祈り頼るな
ら、何一つ無駄で終わることはなかった。 すべてを益にしてくださった。 益になったということ
は、ご利益信仰的な結果を見るのではなく、まず自我が砕かれ、肉が切り取られた。 そうす
ると、ますますキリストが生きておられることがリアルになってきた。 そして本当の神の恵
み、祝福をいただくことができるようになったと思う。

そして、倒れたと傍から見受けられるような状態のときでも立ち上がることができた。 それは
主が全く打ち伏せられることがないようにと著者を支えてくださっていたからだ。 主イエス・キ
リストはご自身に心から頼る者、求めてくる者に対して、答えてくださる方である。 まことに主
あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方である。(詩
篇86:15)
 

数日前のことであったが、昼前、急に腹痛、吐き気、体のしんどさがどっと押し寄せてきた。 
「おかしい、悪霊の仕業」と一瞬、思ったが、動けなくなった。 午後から病院へ連れて行っても
らったが、相当な苦しみだった。 病院に着いても体のしんどさとと吐き気、腹痛で七転八倒の
苦しみで、気絶こそしなかったが、思考が中断されるほどだった。

点滴を受けても医者の質問に答えることができないくらいだった。 娘たちや姉が対応してくれ
たが、ベッドの上で吐きながら、体のしんどさと腹痛のため ころがり続けていた。 見ることも
聞くことも思考もシャットアウトされたかのようだった。 そのような中でも出てきた思いが、「イ
エス様は十字架上で苦しまれたのは、こんなものではない。私のしんどさ、痛さは主の足元に
もおよばない」というものだった。 

その後「こんなところを通らなければならなかったんだ」という、霊的感覚のような「ことば」が浮
かんできた。 それは、失望、落胆ではなく、必ず今後、これを主が益としてくださる、これを活
かしてくださるというところを足場としたものだった。 現在、まだ体は完治していないが、日常
生活は十分できるし、思考も十分回復している。 また医者によると原因はわからないとのこと
である。
  
主は生きておられる。 主は人の本音、本心を重要視される。 神は、心の底からへりくだり、
神を恐れるものに目を留めてくださる。 とにかく、主と主のことばの前にへりくだることであ
る。 そして聖霊の流れに乗らせていただくことである。 

★旧約聖書  イザヤ書 66:2
   これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告
       げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。





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