めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年5月23日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<イエスを信じるとは主のことばの前にへりくだること>


★旧約聖書  ミカ書 6:8
       主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられ
      るのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこ
       とではないか。

★旧約聖書 イザヤ書 43:10
    あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべであ
    る。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るため
        だ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

●「イエスを信じる」ことについて聖書には数多くのことばがある。 その中の一つに「なぜな
ら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえら
せてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)」
がある。  「主」とは英
語で「Lord」であり<lord>の意味は(主人、支配者、所有者、統治者)である。 「イエスを信じ
る」ということは、「イエスを主とする」ことであり、それは、イエス・キリストのしもべとして主に従
って生きることを意味している。 

しもべというとき、パウロもペテロも、「自分がキリストのしもべ」と言っているが、英語の聖書で
は、しもべ(僕)という単語ではなく、奴隷という単語を使っている。 ここに、すべてを主にゆだ
ねきった主への絶対服従と全くの主へのへりくだりをうかがい見ることができる。

さて民数記22:36-23:12に異教徒バラムの話しがある。 イスラエルの民が約束の地カナン
に入る以前、モアブの王バラクはイスラエルに恐れを抱き、ベオルの子バラムを招いてこれを
呪わせようとした。 バラムは最初それを断わるが、二度目の使者は大ぜいの、しかも位の高
いつかさ達であるうえ、王の提供した金品に目がくらんで出かけて行く。

また最初、神は
「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけな
い。その民は祝福されているからだ。(民数記22:12)」
と言われたが、バラムは使者に「主は
私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。(民数記22:13)」
と言った。 しか
その民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ』のことばを省いている。
  
 かつて神がアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるそ
の時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)」
と命じられたが、アダムはそのことばをエバに伝え
ていたはずである。 しかし、へびが語ってきた時、エバは「神は、『あなたがたは、それを食べ
てはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになり
ました。(創世3:3)
」と言った。 「それに触れてもいけない」ということばを付け加えている。 

意識してか、無意識かにかかわらず、神のことばに、つけ加えたり、取り除いたりすることは、
罪への門の中に足を踏み入れていることになる。 そしてバラムの場合「私は行きたいのだ
が」というニュアンスさえ感じられる。 彼の本音は神のことばに従うよりも目の前の宝である。 

それから、使者と共にバラムは王の待つモアブへと向かうが道中、剣を持った主の使いが現
れロバに乗るバラムの行く道をふさいだ。 ろばはバラムの命を救うため、それを避けようと、
道の端によった。 ところが、剣を持った主の使いが見えないバラムは、ろばを打った。 バラ
ムは「ろばが自分のいうことを聞かず、足を押し付けた」という見える現象しか見えなかった。

そのまま進んでいたら殺されていたのに、この後、ろばがものを言っても、
「おまえが私をばか
にしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
と言う始末であ
る。 神への真の従順がない心は、神の介入、あわれみさえ見ることができず、傲慢だけが頭
を持ち上げるものである。

主がバラムの目のおおいを除かれたので、事の重要性にようやく気づき、モアブへと進み、王
バラクの前でイスラエルの民を呪う代わりに、イスラエルの民を祝福したということである。 バ
ラムの目のおおいが取り除かれたのは、イスラエルの民を主が祝福されているゆえではなか
ったかと思われる。 後ほど、バラムはイスラエルを誘惑したかどで殺された。

バラムは異教徒の預言者だったから、本当の神を信じていなかった、真の神を信じるクリス
チャンには関係ないことと一蹴できないものがある。 バラムのことでも主は我々に語られてい
ることがあるからだ。

「イエスを信じる」とは「イエスを主として信じる」ことであり、パウロやペテロのように、主に対し
て「奴隷」として信じることであるといえよう。 バラムは口では「わたしは、神がわたしの口に授
けられる言葉だけを告げねばなりません。」
と神の言葉を忠実に告げようと言っているが、どこ
か迎合的で、建前と本音に違いがあるような感じである。 バラムの言葉や行動の中に、本音
が垣間見える。  バラムの本音、本心には、神への不忠実さ傲慢がある。 
バラムのことは神の言葉を語る者に対しての警告が多いと思われるが、バラムの問題は、す
べてのクリスチャンに対しての警告でもある。 バラムには問題が多々あるが、一言で言え
ば、バラムは主なる神に対してへりくだっていなかったということである。 主と主が語られたみ
ことばに対してへりくだるかどうかが重要である。 どれだけ主のみことばに信頼しているかど
うかと、我々のへりくだりとは裏表の関係である。 

人は何かで試された時、その人の本音、本心が出てくるだけでなく、その人が本当に主を信じ
ているかどうかがわかるものである。 我々は心の底まで、主のみことばに対して謙遜であり
たいものである。 主と主のことばにへりくだっているならば、主のことばに何もつけ加えず、取
り除かず、そのまま受け取るであろう。 主にへりくだっているなら、奴隷のようにすべてを主に
ゆだねきるであろう。 

神は人の本音、本心を重要視される。 とにかく、主と主のことばの前にへりくだることである。 
それが本当に主を信じている、と言えることである。 いよいよ、へりくだって主と主のことばに
従っていきたいものである。 聖霊の流れに乗っていきたいものである。

★新約聖書   ピリピ人への手紙 3:8 ,9
   それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっ
   さいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをち
   りあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認
   められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰
   に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。




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