めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年5月16日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<「
主に仕える」ことを妨げる病>


★旧約聖書 詩篇 103:3^5
       主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴
      から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満た
       される。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

★旧約聖書 詩篇 147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。

●聖書によると、人は神に仕えるように造られている。 「仕える」のギリシャ語には「奴隷とし
て仕える」という意味があるという。 人は何ごとでも、主なる神のしもべ(奴隷)として主の御心
の通りに行うときに、心の底から(真)の喜びと平安、満足が得られるように造られている。 だ
から主なる神に仕えることによる喜びは、何ものにも代えられないものであることを体験した者
は、絶えず主に心を向け、いよいよ主に仕え続けようとするであろう。  

聖書の登場人物ダビデもヨシュアもパウロもキリストの多くの弟子たちもみな、主に仕えること
を喜びとした。 パウロは「主に仕える」ことに徹底して生きたと述べている。 「私は謙遜の限
りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、
主に仕えました。(使徒20:19)」
と記されている。 クリスチャンの最終目標は天の御国に入る
ことであり、この地上における生きる目的は「主に仕える」ことであると言える。


「主に仕える」ときにいろいろと妨げとなるものがある。 肉(うまれつきの性質)である。 主に
仕えるために用いられると思われる熱心や賜物、行動力、思考さえも肉からくるものであるな
らば、主は喜ばれない。 「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 とい
うのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。い
や、服従できないのです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。(ローマ8:5^7)」
と記
されているからだ。 

また、病も主に仕えていくときに妨げとなるものの中の一つである。 ペテロの姑は、熱病で床
に伏していたが、イエスにいやされると、すぐに起きてイエスをもてなした。 そのように主に病
をいやされて、「主に仕える」ことができるようになった人も多い。

ただ「病」の場合、主に仕えていくのに、妨げとなるときと妨げにならないときがある。 「病、病
気」と日本語の聖書に書かれていることばも、英語の聖書を見るとみことばによって、いろいろ
意味があり、使い分けされているようである。 「病」、「病気」を単に体の疾患、病気という意味
の単語だけでなく、(不幸・喪失・死別などに対する)深い苦悩, 深い悲しみ, 嘆き, 悲痛をあら
わす単語や (精神・社会などの)不健全状態, 病弊をあらわす単語、老衰, 虚弱、、(精神的
な)弱さなどの意味合いを含む単語で書かれたりと使い分けがあるようだ。

結局、「病、病気」は主に仕えていくには大きな妨げとなる。 聖書の基本的なことからするなら
ば、病がいやされることは主の御心である。 主イエスはその公生涯で多くの人たちの病をい
やされた。 使徒たちも同じである。 病がいやされることは神の恵みであり、神の祝福であ
る。 主は、人々が主に仕えることができるようにと、いやしをなされた。 人が主に仕えること
ができるために、妨げとなっている状態を、かわいそうにと取り除いてくださった。 

ただ、我々が思っている一般的な病、病気が妨げになっていない場合もあり得る。 パウロに
は、いやされなかった病がある。 その病とは、てんかんであったとも、激しい眼病であったと
も言われている。 パウロが「とげ」あるいは「サタンの使い」と言うほど、苦痛なものであっ
たようだ。 それでパウロは自分の病がいやされるために三度祈った。 しかし、主なる神か
らの答えは「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と、いやされなかったと書かれてい
る。(Uコリント12:7~10) 

病はいやされなかったが、パウロは「主に仕える」ことに徹底して生き、主の御心を知り、主に
大いに用いられた。 新約聖書の約半分はパウロの手紙である。 また、「塩狩峠」「氷点」な
ど書かれた作家の三浦綾子さんも肺結核・脊椎カリエス・帯状疱疹、直腸ガン、パーキンソン
など多くの病を患った方だが、彼女は「私は神から特別に愛されている」と自信を持っておられ
た。 三浦綾子さんの一生は、ほとんどが病気だったようである。 

しかし、三浦綾子さんの場合も「主に仕える」において、それらの病が妨げとなっていない。 こ
のように、確かに肉体的病を持ち続けることを通して、神が栄光を現わすという場合が有り得
る。 ただ、このようなことは特異なことかもしれない。 そのような方々にとっては、肉体的病
は「病」ではないようである。 パウロは、大いに用いられ、深い啓示に預かっているがゆえ、
高ぶらないためにいやされておらず、そうしたとげが刺さっていると語っている。 

このように見るときに、ある意味、神が「病」と見られたものが「病」であり、やはり一般的な見
方、判断とは違うのかもしれない。 一般的に病名のつかない、通常、病とはいわれないもの
でも、主から見られて「病」と断定されるものもあると思われる。 「病」は、「主に仕える」のを妨
げる。 通常では考えられないことであるが、パウロや三浦綾子さんのような特異なケースと反
対のケースも有り得ると思われる。 

神の見方の「病」の定義づけをするならば、一般的に認められていない「病、病気」でも、「主に
仕える」のに妨げるものであるなら、それは「病、病気」である。 主はその病、病気をいやして
くださる。 主は我々の心の奥底を見られている。 「主に仕えたい」と真底、思う者にとって、
妨げとなる「病、病気」は一般的には病名のつかない病でも、主が「病、病気」と見なされ、いや
してくださる。 こういうことは有り得る。 いずれにしても、我々クリスチャンは主と主のことば
の御前にへりくだっていきたいものである。 

★新約聖書  第二コリント人への手紙 12:9
       しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さ
      のうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力
       が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

★新約聖書  ローマ人への手紙 14:18
   このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。



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