めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年5月9日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<キリストに本当につながっているなら御霊の実を結ぶ>


★新約聖書  第二コリント人への手紙 5:17
   だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
   て、見よ、すべてが新しくなりました。

 ★新約聖書 ヤコブの手紙 2:22,23
        あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行な
       いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」
   という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

●クリスチャンとは一般的に言われているのが、イエス・キリストを救い主と信じて救われた人
である。 そういう人たちが教会へ通い、聖書を読み、祈り、奉仕をしているというイメージが強
いかもしれない。 ただ「クリスチャン」の意味は、「キリストにつく者、キリストに従う者」である。 

一般的にクリスチャンと呼ばれている人たちの中で、どれだけの者がキリストにつき、キリスト
に従っているだろうか? 著者もクリスチャンであるが、正直なところ、「キリストにつく」「キリ
ストに従う」というのは、なかなか難しいものであると思う。 

自我、自己が強ければ強いほど難しいかもしれない。 しかし、そうであっても一度、頭ではな
く真底キリストを実際、体験したなら、すなわち、このお方の、言葉では言い尽くせない、言い
表すことができない、人知ではとうてい測り知ることができないほどの神の愛、あわれみ、恵み
を受けたならば、後生大事にしていたものやこの世のものが色あせて見える。 それほど何も
のにも代えられないほどの深い神の平安がある。 

それを体験したなら、このお方主イエス・キリストこそ、わが神、わが救い主と、このお方に従う
ことに焦点を合わせることができる。 そして自我が砕かれ、肉(生まれつきのもの)が切り取
られるような訓練、試練、困難、苦難にあったとしても、イエス・キリストの現われのときに称賛
と光栄と栄誉に至るものであること
を悟り、キリストの中で強く、しかも心落ち着いて乗り越える
ことができる。 

一般的にも、のほほんと暮らすより、いろんな経験をする方が人格形勢に役立つと考えられて
いる。 しかし、それらの経験は、その人自身が自分で活かさなければならない。 そこで人に
能力の差が出てくる。 だが、真のクリスチャンがする多くの様々な経験は、祈りによって主に
介入していただくなら、それらの経験によって神が教えよう、与えようとしておられることを神が
与えてくださり身につけさせてくださる。

そして「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生
み出す(ローマ5:3,4)」
のことば通り、自分が変えられたことを知る。 「救われたのだから、み
ことばを行わなければならない」「クリスチャンだから、従わなければならない」「・・ああせねば
ならない。・・こうせねばならない」との脅迫観念に迫られて律法的に行ないをするのではなく、
聖霊の導きにより、肩の力が抜けたところの自然な感じで、御心を行っていくことができる。 

幼子のように絶えず主に尋ね、導きを得てから行動するようになる。 そのようにしていても失
敗することも多いが、その時は主が責任を取ってくださる。 言葉はわるいが、要は尻拭いをし
てくださる。 だから失敗さえも益になる。 そして、ますます主の導きの重要性を悟って、主の
導きか、自分の思い込みや肉の熱心かの見分けができるようになる。 

パウロは「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身か
ら出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのな
いためです。 (エペソ2:8,91)」
と言っている。 しかし、その後すぐに「私たちは神の作品であっ
て、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行
ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。 (エペソ2:10)」

語っている。

パウロはしっかりとキリストについている者、本当に主を信じた者が、良い行ないをすることが
できると語っている。 「良い行ない」とは主の御心を行うことであり、主のことばに従うことで
ある。 また、ヤコブは「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないの
ない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)」
と言っているが、行ないと信仰はひっついて
いるものである、ということを語っている。 ヤコブは、ヤコブの手紙で「キリストを信じている、
信仰を持っている」と言っておきながら、その信仰が行ないに現れていない人たちを批判して
いる。(ヤコブの手紙2:17,18)

要は、キリストへの純粋な本当の信仰を持つ、すなわちキリストにつく、キリストのうちにある、
キリストの中にとどまっている者がクリスチャンであるということだ。 そのような者が、イエス・
キリストを信じている、信仰を持っている、と言えるということだ。 また、そのような者が必ず、
その人自身とその人の人生が変えられ、良い行い、主の御心を行なうことができる、ということ
である。 一般的に言われているクリスチャンと神から見たクリスチャンとは、どうも大きな違い
があるようだ。 

結局、主イエス・キリストにつく、つながる、とどまることが重要である。 それは一瞬、一時のこ
とではない。 連続である。 継続である。 イエスは言われた。 「人がわたしにとどまり、わた
しもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネ福15:5)」 

を結ぶ行ないは、ぶどうの木である主イエス・キリストに、確実に枝としてついているならば、主
あらかじめ備えてくださっている行ないをできるように主がしてくださる。 

カトリックが行ないを強調し、救いには行ないが不可欠としているが、主イエス・キリスト抜きの
行ないはともすれば偽善となりやすい。 マザーテレサは良い行ないでは多くの人たちが褒め
る。 彼女と同じことなどなかなかできるものではない。 しかし、残念ながら彼女は良いと見ら
れている行ないをキリストの中にとどまって行ったのではないようである。 キリスト抜きで神に
従い、救いを得ようとしたようである。 だから知り合いの神父に「自分と神の間には大きな隔
たりがある。 自分は救われておらず苦しい。」と心の内の悩みを手紙に書いていた。 

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ福15:5)」とイエス
は言われた。 キリスト抜きでの行ないは神の御前に受け入れられないということである。 本
当に本当に深く深く、確実に確実にキリストにつながり続ける、キリストの中にとどまり続けるこ
とに焦点を定めていきたいものである。 そうしているなら、聖霊が導きを与えてくださり、良い
行ないを与えてくださるであろう。 ますます主と主のことばの御前にへりくだっていきたいもの
である。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:1,5
   わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
       わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
       中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
       たは何もすることができないからです。

★新約聖書  ガラテヤ人への手紙 5:22,23
   しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このよ
   うなものを禁ずる律法はありません。





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