めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年5月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! 
ハレルヤ!
<神は、サタンが弟子を麦のようにふるいにかけることを許される>


★旧約聖書  ミカ書 6:8
       主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられ
      るのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこ
       とではないか。

★旧約聖書 詩篇 103:13
   父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

●イエスは弟子たちに、多くのことばやたとえを語られて、弟子たちの信仰を立てあげ、霊的
なことを悟らせるという訓練をされた。 また、それだけでなく、弟子たちに実際、いろいろな体
験をさせて、信仰を堅くさせ、霊的な見方ができるようにとも訓練された。 

最後の晩餐のとき、イエスは「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふ
るいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならな
いように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてや
りなさい。(ルカ22:31,32)」
と言われた。

「ふるいにかけられる」ことについては、ある意味、クリスチャンの敵である悪魔がこの地上を
ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回ってい」ること自体、ク
リスチャンは皆ふるいにかけられていると言えよう。(Tペテロ5:8) しかしサタンはわざわざ神
に、12弟子たちを「麦のようにふるいにかけることを願っ」た。 (ルカ 22:31) そして神はそれを
許された。 

サタン(=悪魔)の意味は、ギリシャ語で「敵対する者」「訴える者」である。 その名のごとく、
神に向かってクリスチャンを告発、訴える。 サタンはクリスチャン一人一人の弱いところをよく
知っており、クリスチャンを神から引き離す、つまり世(世のもの、人)を基準にさせて信仰を失
わそうと巧妙に働いてくる。 クリスチャンと言っても、もうすでに世や世のもの、人を基準にし
ている、つまり神から離れているクリスチャンやまだキリストを受け入れていない人たちに対し
てもサタンは働いていると思われるが、そのような人たちに対しては、改めて、特別神の許可
をもらって働く必要はない。

主なる神から離れているならば、その人の責任で善悪いずれについても神の報いを受けるか
らだ。 イスカリオテのユダは、12弟子の中の一人だったにも関わらず、神のひとり子イエスを
故意に裏切るという罪で滅んだ。 彼の場合は貪欲であったという 履歴があった。 ユダはこ
の貪欲なる思いを心の奥底に隠し持っていたので、サタンは、時を経て彼を欺く事ができた。 

いずれにしても、サタンの働きによって、弟子たちのイエスへの忠実さが試された。 しかしユ
ダを除いた11弟子も、その試しに合格したとは言えない。 11弟子はユダヤ人がイエスを捕ら
えに来たとき、イエスを置いて、クモの子を散らすように皆、逃げた。 逃げたことに後ろめたさ
を感じ、そっと後からついて行ったペテロだが、土壇場で前もって主が言われていたとおり、三
度イエスを知らない、と言った。 

主はそうなることをご存知だった。 だからにペテロに「わたしは、あなたの信仰がなくならない
ように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやり
なさい。(ルカ22:32)」
と、このことも前もって言われた。 11弟子はイスカリオテのユダのように
心の奥底に、神が良しとされない思いを潜ませてはいなかったと思われる。 

さて、イエスを3度知らないと言った途端、鶏が鳴き、主のことばを思い出したペテロは、激しく
泣きに泣いた。 しかしイエスが十字架で死なれた後、空っぽの墓を見ても兄弟たちを力づけ
てやるほどの信仰を取り戻せていなかった。 だが主はご自身が言われたことばは、必ずそ
の通りに成就される。 

だから信仰にしっかり立てていなかったペテロに主は現れてくださり、三度ペテロに「あなたは
わたしを愛するか。」
と問われた。 ペテロは「私があなたを愛することは、あなたがご存じで
す。(ヨハネ福21章)」
と応答したことにより、三度イエスを否定したことへの赦しを与えられた。 
また主は「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えることでペテロを立ち直らせた。 

サタンにやられ、愚かさ、弱さが露呈され、失敗したペテロの経験は、後の主のための働きに
大いに益となった。 益となったというより、そういう体験は主の働きのために必要だったと思
われる。 ペテロはペテロの手紙の第一、第二を書いているが、「・・・あなたがたの敵である
悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。(Tペテロ5:
8)」
など、サタンにやられた体験によって得た霊的感覚、霊的見方で書いている。 これらの
体験、経験は主があえて、ペテロにさせ、それらの体験から学ばせたことを霊の中に刻み込
んでくださった思われる。 

実際、サタンや悪霊が人に働いたならば、信仰を持っていると思われる人でさえ、いちころで
やられる。 主のとりなしの祈りがあるからこそ、ただ主のあわれみがあるからこそ我々は立
ち戻ることができる。 信仰に堅く立つことができる。  

ペテロたちのように主があえて特別に、弟子たちをサタン、悪霊が攻撃することを許される場
合が有り得る。 霊的な見方、感じ方、捉え方ができるようになるためには、そういう体験が必
要な場合が有り得る。 主が、あえて特別にそのような訓練をされるときには、主ご自身がそ
の人の信仰がなくならないように祈ってくださるだけでなく、その人が信仰に立ち直るまで、主
はその人に働きかけてくださる。 そしてそれは神のご計画の中にあることで、立ち直った時に
は、信仰が堅くなっているだけでなく、霊的な見方、感覚を身につけさせてくださる。 こういうこ
とがペテロの時代だけでなく、今も尚、有り得ることである。 
 
キリスト教会は「心の問題を解決する」ことが主体ではない。 もちろんそのことも大切なことで
はあり、主は導き解決してくださる。 しかし、心の問題以上に重要なことは、霊的なことがらで
ある。 霊的なことが解決すれば心の問題は自ずと解決されるということの方が多い。 聖書
は霊の書物であり、イエスは神の側から語られている。 だからイエスは 「人を生かすものは
霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また
命である。(ヨハネ福6:63)」
と言われた。  

これからの時代、何事においても神の見方、すなわち霊的見方、霊的感覚が重要になってく
る。 神は、心の底からへりくだり、神を恐れるものに目を留めてくださる。 そしてそのような
者に主は働いてくださって、霊的感覚、霊的見方を与えてくださる。 いよいよ、へりくだって主
と主のことばに従っていきたいものである。 聖霊の流れに乗っていきたいものである。

★旧約聖書  エレミヤ書 12:3
       主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。

★旧約聖書  ヨブ記 42:2 
       あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知
       りました。



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