めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年4月4日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<葬儀>


★新約聖書  ヘブル人への手紙 13:14
       私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都
      を求めているのです。

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:29
   もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束
   による相続人なのです。

●今日、多くの宗教があり、葬儀に関してそれぞれに考え方、執り行い方があるが、いずれに
しても葬儀は、人がこの世から去る儀式である。 日本では仏教式が多いと思われる。 キリ
スト教の場合、葬儀の目的は「神を礼拝する」「遺体を手厚く葬る」「残された遺族への慰め」と
言えよう。 ある意味、葬儀がクリスチャンにとっては最大の証しの時となるかもしれない。

こんな話しを知人から聞いた。 俳優の宇津井 健さんの奥さんはクリスチャンで、癌を宣告さ
れ、数年前に亡くなられたという。 「葬儀をキリスト教でやって欲しい」とご主人の宇津井 健
さんに頼むと、ご主人は「自分はクリスチャンではないから、キリスト教式でするなら自分で準
備しなさい」と答えたという。

すると奥さんは、その時から準備をし始めた。 しかし、悲痛な感じはなく明るい。 自分の葬
儀、つまり死の準備をするのに、天国に召される事を信じて悠々としている。 そんな奥さんを
見て、「キリスト教というのは凄いものだ」と、感心して、自分も洗礼を受けたという。

さて、創世記50章10、11節にヤコブの葬儀について書かれている。 ヨルダンの向こうの地ゴ
レン・ハアタデという地で子のヨセフたちは葬儀をした。 喪主は父から直接に葬りについて頼
まれていたヨセフが務めた。 その葬儀は王に匹敵するほど盛大なものであった。 その葬儀
を見たその地の住民カナン人は、「これはエジプトの葬儀だ。」と言い、そこの名をアベル・ミツ
ライム(エジプトの葬儀)
と呼ばれたと記されている。 骨は「カナン地方のマムレの前のマクペ
ラの畑にある洞穴に葬って欲しい」との遺言通りに先祖の墓に葬った。

神は最初、アブラハムに「カナンの地をあなたとあなたの子孫に与える」と約束された。 そし
て、その約束はアブラハムの子イサク、その子ヤコブに繰り返し語られ与えられてきた。 しか
し、アブラハムもイサクもヤコブも、実際にカナンの地において得ることができたのは、このマ
クペラの洞穴の墓だけだった。 

ヤコブは、そのマクペラの洞穴に葬られることを願った。 「そこはアブラハムがヘテ人エフロ
ンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので」
った。 またそこは、主なる神
の約束のもとで歩んだこの地上の旅人としての生涯の終わりの印であり、死後の世界の入り
口、すなわち主なる神の約束の実現の最初の印である。 このように墓や墓石は、一つの区
切りである。 

アブラハムもイサクもヤコブもエジプト(=この世)の地で暮らすこと繁栄することには、こだわ
らなかった。 この墓にこだわった。 どのように葬られるか、にこだわった。アブラハムは墓地
を買ったが、イエスも銀30枚で墓地、ほら穴を持った。(マタイ27:9) 

これらのことから、キリストを真に信じるクリスチャンもこだわるべきは、後の世界、亡くなった
後どこへ行くのか、そこにこだわるべきであるということを神は語っておられる。 クリスチャン
はキリストの買い取られたところに葬られることが重要である。 それはキリストのあがない
に入る、永遠の命を得るということである。 

今日、日本はクリスチャン人口が1%に満たないといわれている。 そういう中で、キリストを真
に信じている者が家族の中で1人、2人とか、また一家の主(あるじ)が主を受け入れていな
かったり、家制度が根強く残っている田舎では、実際、葬儀となれば、俳優の宇津井 健さん
の奥さんのようにキリスト教で行うというのが難しいかと思われる。

しかし、真にキリストとの深い交わりをしているなら、どのようにしたらよいのか、自分はどうあ
るべきか、必ず聖霊の導きがあると思われる。 そして、たとえ仏教式の葬儀に出席せざるを
えなくなったときにでも、神はそれらをさえ、後に証しができるほどの益に変えてくださるであ
ろう。

大切なことは、イエス・キリストを信じた真のクリスチャンは、「エジプト=罪のはかないこの世」
にこだわるのではなく、「後の世界、死後の行くところ」にこだわるべきである。 私は教会に
通っているとか、自称クリスチャンであるとか聖書を読んでいる、奉仕をしているとか、キリスト
教式で葬儀をしたからとか、単にそういう外側のことだけで、神の約束である永遠の命を獲得
できたとは言い切れない。 

アブラハムは、この世を旅人、寄留者として生きた。 そのように主に頼りながら、聖霊の導き
に従ってこの地上で、旅人として、すなわち、「この世で生きているが、罪に対しては死んだも
のとして歩んでいく」ことが必要である。 このことは、なかなか難しいものである。 例えば、
人間関係の中で、深い傷を負ってしまい、その傷がいつまでもうずき、責めてはならないとわ
かっていても責めてしまい、それがまた自分を苦しめるということがある。 

「人を裁くのは神である」という信仰に本当に立ち、自分に実際に行ったその人を許し、またそ
の人をも通して、神がみ業を行って下さり、悪をも善に変えて下さる、と受け入れることができ
るならば、そこには新しい歩みが始まる。 我々はそこに至るまで涙を流すかもしれない。 し
かしそのような者と共に主イエス・キリストは一緒に歩んでくださる。 このようなことが、「この
世で生きているが、罪に対しては死んだものとして歩んでいく」ことであろう。 そして主なる神、
イエス・キリストを主人として、第一にして、従っていると言えるだろう。 すなわち主イエス・キ
リストを信じていると言える。 

我々は空想話や作り話ではなく「真実」に目を向けて、真剣に自分の死後への行き先を考えて
みることが必要な時代にいるのではないだろうか。 日々絶えず、主イエス・キリストから目を
離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っ
て、主の導かれるまま歩んでいきたいものである。

★新約聖書  ローマ人への手紙 6:11
   このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・
   イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている




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