めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年1月31日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<ゴールに向かってキリストの平安で満たされつつ戦いの人生を歩む>


★新約聖書 第一テモテの手紙 6:11,12
   しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を
   熱心に求めなさい。 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得
   るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 16:33
       わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持
       つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。
       わたしはすでに世に勝ったのです。」

●聖書の中の登場人物で神が”よし”とされている人たちのこの地上での歩みを見ると、平平
凡凡と日を過ごしている人は一人もいない。 皆が皆、戦いの人生となっている。 旧約聖書で
は戦いの相手は、ミデヤン人だったりペリシテ軍だったり、アラム国や強国バビロニアなどと人
間や国など実際、実在の目に見えるものであった。 しかし、それらは新約の者たちにとって
は、象徴やたとえとしての神からのメッセージ、我々への教訓である。 

「戦い」で我々に教えようとしているのは、実際の目に見えるものと戦うというのではなく、「わた
したちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、
また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 (エペソ6:12)」
と書かれている通りである。

パウロは救われて後、戦いに次ぐ戦いの人生であった。 困難や試練も多く波瀾万丈という言
葉がふさわしいくらいだった。 荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難など労苦は数えきれず、
死に直面したこともしばしばだったと書かれている。(Uコリント11:23~27) 安堵して座り込む
暇はなかったようである。

しかし、パウロの霊は常に平安だった。 外側は嵐のような出来事の中にいることが多く、心も
激動することも多かったようだが、心の奥底、霊はキリストの平安で満たされていたと思われ
る。 「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。(ローマ8:6)」とパウロは
語っているように、パウロの思いはキリストにある思いを常に持ち続けていたようである。 主
イエスが残して行ってくださった平安は世が与えるのとは違う。 何があっても揺るがず、騒ぐ
ことのない平安である。(ヨハネ福14:27) 

パウロは心と思いを絶えず、キリストに向け、心の奥底、霊がキリストの平安で満たされていた
から、敵と戦うことができ、激しい困難や厳しい試練を乗り越えることができたと思われる。 そ
して、常に神の御前にへりくだっていたから「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考
えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに
前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため
に、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13,14 )」
と言い、「今からは、義の栄冠
が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に
授けてくださるのです。(Uテモテ4:8)」
言うことができた。

この地上でクリスチャンとして歩んでいくとき、どっかと座って腰をすっかり下ろしてしまうことは
ある意味、危険なことである。 それは悪霊に隙を与えてしまう危険性があるからだ。 イエス・
キリストを信じたから、もう何をしても大丈夫、救いを失うことは決してないとか教会に所属して
いるから大丈夫、永遠のいのちを失うことは絶対にないとか・・・安堵してよっこらしょっと腰を
どっかと下ろしてしまうと、神が与えようとしている恵みに気がつかず、主が語られていることば
を聞き取れないということが有り得る。

また、主を信じて信仰が成長するために祈り、みことばを行い、みことばに従っていく過程の中
で、神のすばらしい御業を体験したり、奇跡といえるようなことを体験したり、見たりすることが
ある。 そんなとき、ああ神はすばらしい、主の御業に感謝します、と褒め称えるが、そこに
どっかと座り込むことは、やはり危険なことである。

クリスチャンはこの地上では旅人であるが、生きている限り、様々な戦いがある。 戦いは厳
しいものであっても、絶えず個人的に主と交わり、主を礼拝して、心の奥底、霊が主の平安
で満たされ続けることが大切である。 そして途中で戦いを放棄するかのように安堵してどっか
と座り込まず、ゴールに向かって進んでいくことが大切である。 そのようにしていくなら我々の
人生の最後を「有終の美」で飾ることができるだろう。 すなわち永遠の命を獲得することがで
きよう。

日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、神に依り頼ん
でいきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいただき、
聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★新約聖書  ピリピ人への手紙 4:6 ,7
       何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あな
       たがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる
       神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。



めんどり聖書研究会