めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年12月27日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<自分に語られた神のことばは、へりくだって受け取れ!祈れ!必ず主が成就される!>



★旧約聖書 第二サムエル記 7:27
       イスラエルの神、万軍の主よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなた
      のために家を建てる。』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈
      る勇気を得たのです。

★旧約聖書 イザヤ書 55:8,9
   「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる
   からだ。・・主の御告げ。・・  天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道
   よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

旧約聖書第二サムエル記7章に神がダビデに約束のことばを語られたことが記されてい
る。 ダビデはイスラエルの王として神に選ばれ、サムエルから油注がれたが、初代サウル王
に命を狙われて長年、放浪生活をした。 ようやく全イスラエルの王となって、ヘブロンからエ
ルサレムに移り、自分の家で安心して住めるようになった。 

ダビデは自分は杉材の家に住んでいるのに、神の箱は移動式テントのような天幕の中でいい
ものか、と預言者ナタンに言った。 ナタンは神に伺うことをせず、ダビデの思うまま実行しなさ
いと勧めた。 ダビデの動機もよく、それが神のみこころと思えたからであろう。 しかし、その
夜、神はナタンに「ダビデの思いと神の思いは違う」ことを告げられた。 

神は出エジプトの時からイスラエル人ともにおられ、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んで来られ
た。 主はイスラエル人に、杉材の家をわたしのために建てよ、と命じられたことはなく、主の
方がダビデを選び、ダビデのために、偉大なことを行なわれた。 主は、ダビデの行いに応じ
てでもなく、行いの見返りのためでもなく、ただ一方的な神のあわれみと恵みをダビデに示され
たのである。

ダビデは神のための家を建てようと願ったが、むしろ神の方で「わたしが、あなたのために家
を建てる。」
と言われた。 神がことばを語ってくださった。 神が約束してくださった。 神のこと
ばを聞いたダビデは、「私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたは
ここまで私を導いてくださったのですか。・・・(Uサムエル7:18,19)」
と、それまでの神の恵みと
守りに感謝しつつ、先の祝福のことまで語ってくださった神の御前にへりくだって感謝と賛美の
祈りをささげた。ダビデは実際、まだその約束を見てはいないが、神がことばを語られたことで
十分であると知っていた。 神が語られたことばは、神ご自身がその通りになさるからである。

さて、第二サムエル記7章25節〜29節を見るとダビデの願いが書かれている。 ダビデは神か
ら約束のことばをいただいたので「この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです」と言っている。 
このところから教えられることは、ダビデは神が語ってくださった「ことば」「約束のことば」を
握って祈っているということである。 ダビデからの一方的な願いというのではない。 神が語
ってくださった「ことば」「約束」という根拠がある。 神からの語りかけを聞き、そのことばをも
とに祈ることこそ、へりくだっていると言えよう。 またダビデのように勇気を持って、すなわち
大胆に祈ることができる。 

神がことばを人に語られる方法は、ダビデのように直接、語られたり、聖書のみことばであっ
たり、教会の牧会者を通して、いろいろな出来事を通して、人を通してであったりと様々であ
る。 ただ、どのような形にしろ、確かに神が語られた、語られている、というはっきり認識で
きることは重要なことである。

ダビデのように直接、語りかけを聞けるようになれば一番いい。 しかし、このことにおいても、
自分の思い込みや他からの声を主が語ってくださっている、と間違う場合も多い。 だから正し
く、神の語りかけ、神のことばを聞き分けるようになるためには、やはり訓練が必要である。 
ただし、この訓練は、牧師といえども、なかなか人が導くことができるものではない。 主ご自
身が、その人に応じて与えてくださるものである。 ダビデのように心からへりくだり、主に従っ
ていこうと日々、真にキリストとの交わりを持っているなら、聖霊は導いてくださるであろう。 

主がその人に与えたいもの、求めさせたいものがある。 だから主がその人に祈らせたい祈り
がある。 それを知ってそれを祈っていくことは、その人にとって本当に必要な神の恵みや祝
福を得ることになる また神もその人をご自身のみこころのままに用いることがおできになる。 

我々の方から祈り求めることを主は良しとされているとは思うが、ともすれば自分の願いが、
神がその人に与えようとしている分を越えるということも有り得る。 主を信じ聖霊を受けてい
る者は、「キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官」である。(ローマ12:5~27) 足には
足に必要な恵みや祝福、必要なものがある。 他の器官もみな同様である。

「そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜
ばれる者となるのが、心からの願いである。(Uコリント5:9 )」
という思いが常に祈りの根底に
持っておくことは必要であろうと思われる。 

また聖書に「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさ
い。そうすれば受けるのです。(ヨハネ福16:24)」
か「求めなさい。そうすれば与えられます。
(マタイ7:7)」
と書かれている。 確かに、キリストを信じてまだ間もないとき、聖書のことばもあ
まり知らない赤子のようなときには、主が生きておられることを体験するためにも、いろいろ願
い求めることは必要かと思われる。

しかし、いつまでも乳だけを飲んで堅い食物を食べることのできない幼子であってはならない
(ヘブル5:12~14)、と聖書に書かれている。 素直さや従順さなどは幼子のようであるべきだ
が、キリストを体験することやみことばが日々の生活に活かされること、その人の内に生きて
働かれること、義の教えなどについては、いつまでも幼子であるべきではない。 

いずれにしても日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、
神に依り頼んでいきたいものである。 また、常に神の前に聞くという姿勢を持って神のことば
聖書を読み、主からことばをいただき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3
   
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
   うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与え
   てくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

★旧約聖書  詩篇 16:8
      私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。



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