めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年11月15日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<今、自分が進んでいる道を点検することは大切>


★旧約聖書 箴言 4:25
   あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。 あなたの
   足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。 右にも左にもそれてはならな
   い。あなたの足を悪から遠ざけよ。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6
       イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通し
      てでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

●聖書には人がまっすぐな道を歩むことが神の御心であると記されている。 右にも左にもそ
れずに狭く細い道を進んで行きなさい、と主も語られている。(マタイ7:13) 聖書の中の登場
人物の中で神の戒めを守ろうと右にも左にも曲らなかった人たちがいる。 失敗しながらもき
ちんとゴール(天の御国)に行き着いた人も多い。 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ヨシュ
ア、ダビデ、ペテロ、パウロ、ヨハネ・・・。(申命記5:32,U列王記22:2他) 彼らはみな、主の御
前に、心を打ち砕かれ、たましいを砕かれへりくだり、心の曲がりくねったでこぼこの道を平ら
にしていった。(詩篇34:18,箴言14:2,) そして主の御声に聞き従っていった。(申命記13:18) 

多くの人は最終目的を設定して、また、それまでの幾つかの目標点を定めて日々を暮らしてい
く。 人生設計(人生計画)である。 一つ一つのことが、人生の節目となり、次の目標地に向
かってスタートということを繰り返しているようにも思える。 そしてそれは、ある程度、先が見え
ている。 見えない場合もあるが、簡単な予測がつくことが多い。

しかし不思議なことに、クリスチャン、それも真のクリスチャンになるほど先が全く見えない。 
もちろん目標地は天の御国というのはどのクリスチャンでも同じであるだろう。 クリスチャンと
名乗るならば、そうであるべきだ。 主の御心だからで・る。

アブラハムも「どこに行くのかを知らないで、出て行」ったとある。(ヘブル11:8 ) 旧約時代のダ
ビデもヨシュアもイザヤもダニエルも皆、主に尋ね伺いながら前へ前へと進んで行った。 新約
時代のパウロもペテロもテモテも皆、やはり主に尋ね伺った。 すると聖霊が彼らを前へ前へ
と進ませてくださった。 その道こそが、まっすぐな道であり、右にも左にもそれない道であり
わたしが道であり、真理であり、いのちである」と言われる主イエス・キリストの道であった。 

「右にも左にもそれないまっすぐな道」は正しい道であることには間違いないが、しかしその道
も吟味が必要なこともある。(Uコリント13:5) 「人の目にはまっすぐに見える道がある。その
道の終わりは死の道である。(箴言14:12)」
と書かれているからだ。 

Uサムエル記2章にダビデの家来のアサエルのことが書かれている。 初代イスラエルの王サ
ウルが亡くなった後、サウルの家とダビデの家との間には戦いが続いた。 あるときギブオン
の池のそばでそれぞれの家来たちが闘技をした。 闘技は一瞬にして激しくなった。 ダビデ
の家来、アサエルは野にいるかもしかのように足が早かった。 サウルの家来のアブネルを右
にも左にもそれずに追った。 アブネルはアサエルに他へ行くように、再三にわたって言った
が、アサエルは聞かず突進してきた。 

アブネルは槍を逆さまにして尖った握りの先で彼の身体を貫いた。 もしかしたら殺そうとまで
思っていなかったのかもしれないが、アサエルが猛スピードで走って来たため勢いよく石突きさ
えも刺さってしまい、死んでしまった。 足が早い、という長所とも思えることがあだになったよう
である。 右にも左にもそれず、まっすぐアブネルの方に突き進んできたが、結局、自分の命
を落としてしまうことになった。

主はここで、その道が 右にも左にもそれなくて、たとえまっすぐでも命を落とすことがあるとい
うことを我々に教えておられるように思われる。 「まっすぐ」「右にも左にもそれない」ことは正
しいこととして聖書には多く書かれているが、アサエルのような場合も有り得るということであ
る。 「足が早い」という長所、もしくは才能をもっていたとしても、聖別されていなければ、肉の
まま(生まれつきのまま)であるならば、命(永遠の命)を落とすことがあり得るということであ
ろう。 

また、その道は本当に主が語られた道なのだろうか、それとも自分が聖書を見て、「この道は
御心の道だ。間違いない」と自分で思い込みの判断をしていないだろうか、など一呼吸おいて
先入観なしに主に尋ねる心のゆとりが必要であろうと思われる。 吟味が必要なのである。
(Uコリント13:5 ) 主の御心だ、とまっすぐに突き進むことはよいことのようではあるが、勘違
いということも多いからだ。

また、最初は正しく、理由も正しくとも、主の定めた道と言えない場合もある。 それほど巧妙
にサタンは惑わし、逸らし、世をクリスチャンの思考の中に混入してくる。 そういう意味では 
主の御心を知ることも見破ることも たやすいことではない。 しかし、主は我々が真剣に心か
ら尋ね求めるなら答えてくださる。 導いてくださる。 御声を聞いくことができるよう、主の御心
を知ることができるよう、我々をいろいろな出来事、体験を通してくださって教えてくださる。 

人は主に試されたとき、その人の本音が出る、その人の持っている信仰が出る。 その時に
本当に心から求めていたのかどうかがわかる。 とにかく、主の定められた道を右にも左にも
それないでまっすぐに進んでいきたいものである。 主イエス・キリストの道であるならば確実
に天の御国に着くからである。 

そのためには主の導きを知る必要がある。 我々は、主が語られる御声、またはいろいろな
出来事を通して、いろいろな人を通して語られる主の御声に耳を傾けていきたいものである。 
そのため主との交わりを深めていくことが大切である。 いよいよ日々、主イエス・キリストから
目を離さず絶えず主に尋ね、祈って、主の御心を悟っていきたいものである。

★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:2324
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。  たといその人が倒れ
   ても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

★旧約聖書 箴言 9:6
   わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。」と。



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