めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年9月27日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<聖霊が働かれるため神の前に日々へりくだり従い通せ!>


★新約聖書  エペソ人への手紙 4:30
       神の聖霊を悲しませてはいけません。・・・

★旧約聖書  詩篇 51:11
       私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

●旧約聖書に登場してくるイスラエルの最初の王サウルは預言者サムエルから王として頭に
油を注がれた。 当初はとても謙遜な青年であり、サムエルに忠実に従うが、ある時、ペリシテ
との戦いの際、サムエルの到着が遅れたため、サウルは祭司以外の者は捧げてはならない
犠牲の供え物を自分勝手に捧げるという不従順に陥った。 サウルは神から退けられることを
サムエルによって宣告された。 

その後もたびたびの不従順、傲慢によって、ついに主の霊は彼から去り、替わりに悪霊によっ
て悩まされるようになった。 サウルはダビデをねたみ、何度も殺そうとするが失敗し、最後は
ペリシテの戦いで三人の息子たちも殺され、彼自身も自ら剣の上に倒れこんで自殺した。

そのサウルが霊媒に伺いを立てるという深刻な罪に陥ったことがTサムエル記28章に記され
ている。 あらすじはこうである。 ペリシテとの全面戦争が始まった。 イスラエル軍は、ペリシ
テのように戦車も騎兵も持たず、広い平坦な所では圧倒的に不利だった。 その上、預言者サ
ムエルも死んでいなく、ダビデは敵方にいた。

サウルはペリシテ人の陣営を見て「恐れ、その心はひどくわなないた。」 絶望状態に陥ってい
たのである。 人はそういうとき誰かの助言を得たい心境になろう。 クリスチャンなら当然、神
に尋ね祈るであろう。 サウルも神の民イスラエルの王である。 だから本当に自分たちを助
けることができるのは、主であり、神の御言葉であることを知っていた。 だから主に伺った。 

しかし、主は答えて下さらなかった。 すると、そこですぐさまサウルは霊媒をする女を捜すよう
に家来に命じた。 サウルは霊媒、口寄せに関してイスラエルの中でも、もっとも厳しく禁じられ
ていたことを知っていた。(レビ記19:31,20:27) それで、そのときには国内から霊媒や口寄せ
を追放していたのだが、その霊媒に頼ろうとした。

変装して身なりを整えて霊媒の女のところへ行き、預言者サムエルを呼び出させた。 神なき
人の姿である。 日頃、信仰を馬鹿にして何ものにも頼るそぶりも見せなかった人が、絶体絶
命の窮地に立たされたり、不幸ごとや問題が続いたり、大きな不安や恐れを抱くと、やれお払
いだ、占いだ、方角が悪いなどと急に気になり、そういうものに左右されるようになる人も多
い。  しかしそうした結果、最後まで万々歳というわけにはいかないようである。 本当の平安
を得ぬまま、それなりの解決でそれなりに過ごしていくという人が多いようである。 そこでも本
当の神なき人の姿があらわれている。

主が答えてくださらなかったとしても、そこでサウルが真に悔い改めてへりくだったならば、あわ
れみ深い神は答えてくださった可能性の方が強い。 この後、霊媒の女が「サムエルを呼び出
してもらいたい。」 という願いに答えて、現れてきたサムエルを見たとき、変装したサウルに「あ
なたはサウルではありませんか。」と 大声で叫んだことが記されている。 

変装では見抜けなかった女がサムエルを見ただけで、サウルとわかったのは、明らかにここで
も神が介入されているということではないだろうか。 土壇場ででもサウルに悔い改めをさせよ
うとの神のあわれみではないかと思われる。 しかし、サウルは神の御前に頭を低くすることが
できないほど、傲慢、プライドの盾をおろすことができなくなっていた。 そして最終結果、サウ
ルに、サムエルを通して「あなたは主の御声に聞き従わず・・・それゆえ・・・あす、あなたも、あ
なたの息子たちも死ぬ。」と主は峻厳な最後の宣告をされることになった。

サウルのことは人事ではなく、クリスチャンである我々にもサウルのようになる危険性はある。 
神は、これまでに繰り返し、サウルが立ち返って来るように、ダビデを用いたりなど様々な方法
で語りかけておられたが、サウルは反省はするものの悔い改めまでには至らなかった。 正し
く神に立ち返ることができなかった。 

サウルの場合、それまでの神と神のことばに対する反逆により聖霊が自由に働かれなくなっ
ており、聖霊の助けを得ることができなくなっていた。 神の御言葉が自分に都合が悪い時に
は、耳を塞ぐなど反逆、反抗を続けていると無意識の内に傲慢の壁を築き上げていき、引くに
引けない、つまりへりくだろうとしてもへりくだることができないくらい頑なになる。 

我々クリスチャンは、日々の生活で主の御前にへりくだり、聖霊の流れに乗っているかどうか
が重要と思われる。 聖書を読み、祈り求め、教会へ通っていても、神が答えてくださらない、
ということは有り得る。 ただ主の時があって答えの時が来ていないということもあるが、聖霊
が働かれていないということがある。

そんなとき、ともすれば祈りながらも自分の思い、願いを貫いている可能性がある。 反省はし
てみても御心通りに行っているから、祈っているから、聖書を読んでいるからと自分の正しさを
無意識に主張している可能性がある。 「イエス・キリストを信じている、主に従っている」と言っ
ても、自分の信仰や思いを点検してみることが大切である。(Uコリント13:5 ,ローマ8:6 ) 肉の
熱心な信仰ではなく、聖霊に導かれる信仰、聖霊が働かれる信仰、最後まで全うする信仰で
あることが重要である。 

そのためにも、やはりまずは主の御前にへりくだって祈りつつ思いを点検し、日々絶えず、主
イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていき
たいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいただき、聖霊の流
れに乗っていきたいものである。 

サウルを何度も神に立ち返らせようとされた憐れみ深い主は、今も生きておられる。 不安や
恐れに陥ったとしても、様々な問題が浮上してきてにっちもさっちもいかなくなったとしても、へ
りくだって心から神に拠り頼み、神に叫び求めるならば今も答えてくださる。 そして平安や慰
めが与えられる。 いい意味でも悪い意味でも厳粛なことであるが、主が語られたことばは必
ず成就する。

★旧約聖書  イザヤ書 57:15
        いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せら
       れる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へり
        くだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

★旧約聖書 民数記 14:24
       ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通した
      ので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するよう
       になる。



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