めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年9月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<キリストにあるあわれみと肉からのあわれみ>



★新約聖書 マタイによる福音書 5:7
        あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:24,25
      キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけて
     しまったのです。  もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうでは
      ありませんか。

主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。(詩篇116:5) それでそのあ
われみ深い神によって創造された人間は、あわれみを持つべきであることを聖書では語って
いる。 あわれみのない者には、神の仮借のないさばきが下される。(ヤコブ2:13)

1万タラントの負債をゆるしてもらった人の話しは、人事ではなく我々のことであろうと思われ
る。(マタイ18章) 人は生まれながらの罪人である。 神に対して1万タラントの負債を負ってい
るような者である。 それを処分するためにイエスは我々の身代わりとなられて十字架にか
かって死んで下さった。 御子イエスの死によって我々は、この地上では払いきれない罪の負
債を払うことができるのである。 そしてその主イエスは、3日目によみがえられて今も生きてお
られる。 そのことを信じ、主イエス・キリストを救い主として信じる者を救ってくださる。 救わ
れた者は絶えずキリストに頼り、この地上生活を神のみこころに従って生きていく。 そのよう
に信仰を全うした者を神は、永遠の御国に迎えてくださる。

人はいずれ死ぬ。(体の死) そしてすべての者が死後、神の前に出る。(ヘブル9:27) その
とき罪を処分できていない者の行き先は、聖書のみことば通り、間違いなく地獄である。 「罪
から来る報酬は死です。(ローマ6:23)
と記されているが、この死は肉体の死に留まらず魂と霊
の滅びをも 意味する。 すなわち永遠に地獄で苦しむことなのである。 恐ろしいことである。 
また厳粛なことである。

マルコ5章で悪霊に取り付かれていた墓場に住み着いていた人が、主に悪霊を追い出してもら
い、正気になったとき、お供をしたいと申し出た。 その時、主は言われた。「あなたの家、あな
たの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわ
れんでくださったかを、知らせなさい。(マルコ5:19) 」
と。 

神のあわれみを伝えることは主の命令でもある。 本当は神の真のあわれみを受けた者が、
あわれみを伝えることができるものである。 神のあわれみを受けたのに、それを人に伝えな
い、示さない、与えないのは、もってのほかであるが、かと言ってキリストにあってでなければ、
自分が栄光を取ってしまう危険性がある。 ともすれば、一段高いところから、”あわれむ”よう
になる可能性がないとは言えない。 

”相手のことを考えている”と言いながら、結局自分のために行動しているということも有り得
る。 案外、そういうことに気づかずに御心を行っていると思っていても、その中に生まれつき
の性質からのものが入っているということがある。 もし、肉(生まれつきのもの)が入っていた
ならば、神はその言動を喜ばれない。 

「肉にある者は神を喜ばせることができません。(ローマ8:8 )」と聖書に書いている。 肉(生
まれつきのも)から出てくるものは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そね
み、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの(ガラテヤ5:19~21)」
と書いている。 そのようなものが出ないように、うまくおさえていたとしても、その人の弱い部
分を揺るがされたなら、すぐさま噴き出してくるものであろう。 

また、何でもかんでも”あわれむ”のでもない。 主は「わたしは自分のあわれむ者をあわれ
み、自分のいつくしむ者をいつくしむ。(ローマ9:15)」
と言われた。 神の法秩序を崩すような”
あわれみ”は神が言われる”あわれみ”とは言えない。(申命7:16、13:6~9、19:11~13)

いずれにしても、善い行いをしたとき「キリストにあって」とか「キリストによって」とか「キリスト、
神が介入されている、キリストにくっついている」かどうかは重要なことである。 キリスト教会で
も世間でもすばらしい器といわれている人も多いが、その中でもマザーテレサは群を抜いてい
るかもしれない。 しかし、確かに彼女の行動は学ぶべきところが多いが、聞くところによると「
神から遠く離れて」善いことを行っていたようである。 

この世の「善、見方、基準」と神の「善、見方、基準」は違う。 世が認めても神が認めていない
ということは有り得る。 世が喜んでも神が喜ばれないということは大いにある。(ヤコブ 4:4他) 
世の人々が絶賛し、カトリックから”福者”と認められているマザーテレサは、 「人はキリスト教
からでも、仏教からでも、イスラム教、ヒンズー教などどの宗教からでも神に至る(多元主義)」
などと主が忌み嫌われることを言っている。 そして何でもかんでも受け入れている。 

彼女の"善の行動”には”キリスト”が介入していなかったようである。 神が介入されずに、あ
れほどのことができたのは見上げたものであるが、それでも神が介入されていないなら、キリ
ストとは関係ないものである。 永遠のいのちとは何の関係もない。 知り合いの神父に「自分
と神の間には大きな隔(へだ)たりがある。 自分は救われておらず苦しい。」と心の内の悩み
を手紙に書いていたというのを聞いたことがある。

主が我々をあわれんでくださったように、仲間(人)をあわれみ、我々の家(教会)、家族(クリス
チャン)に、主が我々に、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださった
かを、ぶどうの木であるキリストにくっついて(つながって)、知らせていくことは、神のみこころ
である。(ヨハネ福15:5) もともと人には、神がよしとされる”善”を持っていないのだから、キリ
ストにくっついているべきであろう。(詩篇53:2)

何事をするにもキリストにくっついて、神が介入されて行っていくならば、どこであわれみをかけ
るか、あわれみをかけてはならないか、キリストにあってか、肉からか、などを見分けて行って
いくことができるようになるであろう。 ある時は喜んで「ハレルヤ」と叫び、感謝感謝と舞い上
がっていても、翌日になると、些細なことで苛立ったり、落ち込んだりして、喜べなくなってしま
うというようなことは終わりとなるであろう。 

そのためにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈るこ
と、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主か
らことばをいただき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5
       わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
       中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
       たは何もすることができないからです。


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