めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年8月30日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<反省だけでは神が良しとされる真の変化はない>



★新約聖書 テモテの第二の手紙 2:8
   私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キ
    リストを、いつも思っていなさい。

★旧約聖書  エゼキエル 18:32
       わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・神である主の御告げ。・・だから、悔い改
      めて、生きよ。

★旧約聖書  エゼキエル 33:11
       彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の
       死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改め
        よ。悪の道から立ち返れ。・・・・

●旧約聖書には登場人物によっては、その生き様が詳しく書かれている。 アブラハム、イサ
ク、ヤコブ、ヨセフ、ヨシュア、ギデオン、ダビデ、ソロモン、・・・。 彼らはみな、「主は生きてお
られる」
と敬虔に神を信じていた。 しかし、我々がクリスチャンとして生きていくのに見習わなく
てはならない者だけではなく中には、反面教師的に学ばなくてはならない者もいる。

ダビデやサウルの時代、イスラエルはペリシテ人と戦争をしていた。 その戦争ではダビデが
ペリシテ領侵攻作戦を指揮して勝利した戦いが多く、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ
た。」
と民衆の支持を集めるようになった。 だからせっかく、イスラエルがペリシテ軍に勝って
も、自分の功績、自分の気持ちが第一だったサウル王は勝利を喜べず、ダビデに対してねた
みが強くなるばかりだった。

そして更に、ペリシテ人との戦いでダビデの名が民衆の間で高まってくるとダビデに対する恐
怖は限界に達し、自らの手で直接ダビデを殺そうと執拗に追いかけ回した。 時には息子ヨナ
タンのとりなしによって、ようやく我に返って「主は生きておられる(Tサムエル19:6)」という信
仰告白をするが、すぐその後で、また我を忘れて、ねたみに走りダビデを追いかけるということ
を繰り返した。

Tサムエル記24章26章では、サウルに追われ、幾度となく身の危険を味わってきたダビデ
が、その立場を逆転できる千載一遇のチャンスが2回訪れた。 1回目はエン・ゲディの荒野の
ほら穴に用を足すためにサウルが一人で入ってきたとき。 2回目はジフの荒野でサウルが幕
営の中で横になって寝ており、供の者たちも寝入っていたときである。

サウルは神に従わず、自分の見栄や欲望を第一にしたゆえ、神に見放された者であり、ダビ
デの命を狙う者であった。 その上、イスラエルの王をサウルに代えてダビデにするということ
は、神の定められたこと、神の御心でもあった。 だから神の御心を成就するための絶好の機
会であるというのが、従者たちの意見だった。 しかし神の御心が成就されるための環境、状
況が整ったチャンスの時であっても、ダビデはサウルに手向おうとはしなかった。 そしてサウ
ル王の裁きも、自分の救いもすべて一切神に任せた。  むしろ1回目のとき、衣のすそを切り
取ったことで心を痛めた。 ダビデは「神に油注がれた者」つまり「神の権威」を認め、「神の権
威」のもとに遜っていたからである。

サウル王といえば、我に返って「あなた(ダビデ)は私より正しい。あなたは私に良くしてくれた
のに、私はあなたに悪いしうちをした。(1サムエル24:17)」
と声をあげて泣いても、またすぐに
同じことを繰り返した。 「私は罪を犯した。・・・ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなま
ちがいを犯した。(1サムエル26:21)
」とまで言い表したが、その後の記事を読むと、やはりサウ
ルは変わっていない。 反省しても後悔してもまことの神に心底から悔い改めることをしなかっ
たからである。

反省や後悔を何回も、何十何百回しても人が本当に変わるというのは難しいようである。 自
分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えてみても、自分のよくなかった点を認
めて、改めようと考えてみても、自分のしてしまったことを、あとになって失敗であったとくやん
でも結局、人間の力だけでは真の変化はむずかしいようである。 

パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:2
3)」
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わた
しは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないから
である。(ローマ7:18)」
と語っている。

罪とは神に逆らって神から離れて自己中心に生きている的はずれな状態を意味している。 
だから的を得た道、すなわち神が一人ひとりに与えてくださっている正しい本来の道を歩むた
めにも、人がいつも心を向けるべき的は、まことの神、永遠のいのちであられる御子イエス・キ
リストである。(Tヨハネ5:20)
 自分を省みることは必要なことではあるが、神の介入が必要
である。 すなわち祈りをもって聖書に照らし合わせてみることである。 そうするならば聖霊が
教えてくださるであろう。

罪を悔改め、キリストを信じて生まれ変わるということは、確かに1度、そういう大きな経験が必
要かもしれないが、真に変わるためには、日々の積み重ねということが大切であると思われ
る。 真の悔い改めと正しい信仰を通して、キリストを受け入れる人を、キリストは義とし、永遠
のいのちの相続人としてくださる。

日々、単なる反省ではなく、心の方向転換である悔改めをもって主に祈り、主が定めておられ
る一人一人に示してくださる道を歩んでいきたいものである。 その道を進んで行くなら、活き
活きと生きることができる。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねるこ
と、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて
聖書を読み、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 主は生きておられる。

★新約聖書 ローマ人への手紙 2:5
       ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神
      の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 3:18
       顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へ
      と、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによる
       のです。



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