めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年6月14日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<主が望まれる語る人について>



★旧約聖書 申命記 8:5
   あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
   知らなければならない。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:7
        信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
        キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 4:5
       私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。・・

●旧約時代にはイスラエルの預言者が神からことばを預かり人々に語った。 四大預言者と
いわれるエゼキエル、 イザヤ、ダニエル、エレミア他多くの預言者がいる。 新約聖書には使
徒、弟子と呼ばれる者たちが福音、証しを語っていることが記されている。 12弟子以外にも
パウロ、アキラとプリスカ夫妻、伝道者ピリポなどが神の道を語っている。

ペテロの場合。 一介の漁師で「無学な普通の人」(使徒4:13)に過ぎなかった彼が、ペンテコ
ステの日、11人とともに立って声を張り上げ、人々に語ると、その日3千人ほどが弟子に加えら
れた。(使徒行伝2章)。 ペテロはいきなり大伝道者になったのではない。 

直情でおっちょこちょい、衝動的、性急、血気盛ん、臆病、それでいて自信過剰のペテロは、
主イエスの召しに応じて、網を捨ててイエスの弟子となった。 キリストと3年半寝食をともにして
訓練を受けた。 キリストとの3年半は失敗に次ぐ失敗の連続であった。 

変貌山でイエスが天での栄光の姿を見せられ、モーセとエリヤが現れた荘厳な場で、わけの
わからぬ言葉を発したり(マタイ17章)、血気盛んに水の上を歩き出したが、荒れ狂う海を見て
不信仰になり、沈み始めたり(マタイ14章)などペテロの失敗エピソードは実に多い。 極めつ
けの失敗は、ユダヤ人恐さのゆえ三度、主を知らないと言ったことであろう。 

しかし、そういうイエスの前での失敗の経験のたびに、弱さ、愚かさ、軽さがさらけ出され、本当
の自分を知り、彼の高ぶり、自信過剰など肉が砕かれていった。 そしてその度に主の優しい
御手に触れていき、主を深く愛する者とされていった。 その砕かれたペテロに聖霊が働かれ
て語ったことばは、人々の心の奥底にまで届いたのである。

誰かがペテロの語ったことばと全く同じことばを語ったとしても、それで人の心の奥底に神のこ
とばが届くものではない。 もちろん神のご計画があるから必ずとは言えないが、多くの場合、
心砕かれ、主の御前にへりくだった者が語ると人の心を動かすことができるようである。 聖霊
が働かれるからである。 要は誰が、どんな人が語るかが大事である。 

パウロの場合。 パウロ(サウロ)は幼少から、律法などを徹底的に教育され、ローマの市民
権を持ち、ギリシャ語にも堪能だった。 今でいうエリート、秀才。 そのパウロはクリスチャン
を迫害していた。 ところがダマスコへの途上において、復活したイエス・キリストとの出会い、
その後イエスに遣わされたアナニヤの祈りにより劇的に回心した。 「キリストのゆえに、わた
しはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。(ピリピ 3:8)」
と記されて
いる。

その後のパウロは、キリストの為に生きることのみに徹した。 その過程はサウロの時代、彼
が迫害したのに比べることができないくらい迫害と困難の中を通った。(Uコリント11:23) 数多
くの困難などの経験はパウロを砕いていった。 そのような経験、体験のたびにパウロはます
ます主によりすがり、主の御前にへりくだった。 そのようなパウロの語りは、聞く人々の心の
奥を揺さぶり悔い改めへと導いた。 聖霊が存分に働かれたのである。 

ペテロやパウロに共通することは、神の御手の中で数々の経験、体験をしているということで
ある。 それらの経験が神からの試しにもなり、訓練にもなっている。 そして彼らはそのたび本
心、本音、本当の自分を知り、砕かれ、肉がそがれ、神の御前にへりくだっていった。 そして
キリストをますます愛する者となっていった。 そういう者が語ることば、証しだから聖霊が用い
てくださるのである。 人を用いられるのも聖霊であり、そのことば、証しを用いられるのも聖霊
である。

本当に主が用いるといわれる者は、主が直接、人や出来事などを用いて主が訓練をされる。 
主に喜ばれる者になりたい、主を深く愛する者になりたい、と真に願い、主に絶えず祈っている
者を主が様々な経験、体験を通すであろう。 それらの出来事は、その人が主によりすがるな
らば、主に祈るならば、神からの訓練として主が鍛えてくださる。 しかし、せっかくの様々な
経験、体験もその人が主によりすがらないならば、祈らないならば、ただの失敗、何の益にも
ならない自業自得で終わる可能性もある。

要は、真剣に時間をかけて祈るか祈らないかである。 そして、福音、神のことば、証しは誰が
語るか、どのような人が話すかが重要である。 テクニックや回数だけの問題ではない。

まずは主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ね祈ること、どんなことでも絶えず祈
り、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 主に
喜ばれる者にしていただき、聖霊が用いてくださる者にしていただきたいものである。

★旧約聖書 イザヤ書 66:2
        これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御
        告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 7:17
        ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったとき
        のままの状態で歩むべきです。




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