めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年6月7日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<主が望まれる祈る人について>


★旧約聖書 イザヤ書 57:15
        いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せら
        れる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へり
        くだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 7:17
        ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったとき
        のままの状態で歩むべきです。

●聖書には多くの人物が登場してくる。 その中の神が”よし”とされている人たちはよく祈る。 
聖書に登場してくる「祈りの人」といえばモーセ、ハンナ、サムエル、ダビデ、ダニエル、パウロ
と他にも大勢いる。 

ハンナの場合。 ずっと子供が授からないという悩みと苦しみだけでなく、彼女を憎んでいる他
の妻によって、ひどく悩まされ苦しめられる日々を送っていた。 彼女のこの痛みは、人の慰め
ではどうする事も出来ないほどであった。 ハンナは嘆きと訴えの祈りをした。 しかし、ハンナ
が心を注ぎ出して祈るうち、主の喜ばれる祈りとなった。 そしてハンナはその後、大いに神の
祝福に預かっていった。 ハンナの苦しみ悲しみの経験は、深い神の恵みを知るために大い
に益となった。

ダビデの場合。 絶えず敵との戦い、サウルに執拗に命を狙われ逃亡の日々、実子の謀反、
実子から命を狙われる、数え切れないほどの試練の日々の中、ダビデが祈った祈りは詩篇に
記されている。 試練に次ぐ試練にあっても主の御前にへりくだり主を愛したダビデを、神は
愛された。 ダビデの言葉には表せない艱難辛苦の経験は、深い神の愛を知ることとなった。

彼らの共通点は、ハンナもダビデも様々な試練、訓練を体験しているということである。 彼ら
の苦しみ悲しみ多くの苦難など、すべては神の御手の中で経験している。 神はそれらの経験
のたびに、彼らを試しておられた。 そして彼らはそのたびに主の御前にへりくだり、主に祈り
に祈ることによって、神への愛、恵み、へりくだりを霊に心の奥底に刻み込んでいただいてい
た。  彼らの祈りは、様々な試練、訓練の経験、体験を通して砕かれた者の祈り、悟りを与え
られた者の祈り、すなわち神が喜ばれる祈りとなっていった。 

たとえ何の変哲もない祈りのことばであっても試練を受けた者の祈りは、主が喜ばれ聞かれる
ものである。 その祈りにはへりくだりが感じられる。 様々な試練のたびに、この世の知恵や
知識や人に頼らず、自分の力を過信せず、主の導きだけを求めて祈っていく。 そして、与え
られた主のことばや主の示しに従おうとする者、すなわち主に寄りすがる者に、神を知ることの
深み、神への愛の深み、神へのへりくだりをその人の霊(心)に刻み込んでくださる。

そういう者が、他の者たちのために祈る祈りを神は望んでおられる。 そして、そのような者の
祈りは必ず聞いてくださる。 時間をかけて祈ること、絶えず祈ること、どんなことでも祈ること、
確かにこれらは大切なことであり、神が我々に望まれていることである。

しかし、それ以上に神が望まれているのは、神によって様々な試練、訓練の経験を積むたび
に砕かれ、へりくだって、神から与えられた自分の分をわきまえる者たちが、キリストのため、
他の者たちのために祈ることである。 

まずは主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ね祈ること、どんなことでも絶えず祈
り、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 そして主が
望まれる祈りができる者にしていただきたいものである。

★新約聖書 ローマ人への手紙 12:16
        互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。
        自分こそ知者だなどと思ってはいけません。



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