めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年4月26日。主が復活された記念すべき日曜日です! 
ハレルヤ!
<訓練とは、誰がどのようにするものなのか?
>



★旧約聖書 申命記 8:5
       あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
       知らなければならない。

★旧約聖書 申命記 8:2,3
       あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていな
       ければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るか
       どうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
       それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らな
       かったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口
       から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

●聖書の中に登場してくる信仰の勇者たちは、皆一様に神の訓練を受けている。 そうして信
仰が鍛えられている。 ヘブル11:6に 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜな
ら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる
はずだからである。」
と書いてあるが、通常、クリスチャンであれば、そのことは重々わかって
いることであろう。

しかし、人という者は、何か事が起きたとき、その人にとって苦手なことがらが身に降りかかっ
たときに、その人の本音が出るといわれている通り、信仰に関しても本当に信仰があるかどう
かは、何かの出来事なり、事が起こったとき、いわば試された時にわかるものであろう。 ま
た、神のことばが望んだときには、もっとはっきりすることだろう。 

ノアは神から警告を受けた時、周りの者の言動や常識、批評には心奪われず、ただ神のこと
ばに恐れかしこんで、箱舟を造ったり、信仰による義を相続する者となった。 アブラハムは相
続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、ただ、これに従い、世間では無
謀と言われるかもしれないが、どこに行くのかを知らないで出て行った。 

聖書の多くの登場人物たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れら
れるめに会い、 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊やや
ぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、 荒野と山とほら穴と地の穴とをさま
よったり、とそれぞれに応じて様々な体験をした。 

そのような体験は、彼ら一人ひとりの肉が切り取られることとなり、自我は砕かれ、信仰が鍛え
上げられていくこととなった。 そして、皆、その信仰によって、この地上を歩んでいった。 彼ら
にとって一つ一つの出来事、経験、体験が、訓練であり、試練であったといえよう。 そして、こ
のように彼ら一人一人は、皆、神によって訓練、試練を受けて結果、見事に神に喜ばれる者と
なり、この地上の生涯を終えた。

訓練や試練は、神の力と恵みを知り、神を崇め、主に拠り頼んで生きて生きていく者となるため
にはどうしても必要である。 また主に従って、主のみこころを行っていくためにも、どうしても
必要なことである。 そして、その訓練は やはり神が一人ひとりに応じてされるものであると
思われる。 我々の頭の毛さえも、みな数えられてご存知の主が、我々一人ひとりの心の奥の
思いさえも知っておられる主が、一人ひとりに応じて訓練なり、試練なりをなさるであろうと思わ
れる。

我々は、絶えず心を主イエス・キリストに向けて、絶えず祈り、神のみことばである聖書を読
み、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしていきたいものである。 

★新約聖書(口語訳) ヘブル人への手紙 12:10,11
       肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わた
       したちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
       すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。し
       かし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。


めんどり聖書研究会