めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年4月5日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主が見られた長血の女の病といやし>



★旧約聖書 伝道 3:1^3
   天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。  生まれるのに
       時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 
       殺すのに   時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。

★旧約聖書 伝道 3:11
       神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・・

●福音書に「長血の女」の信仰がイエスに喜ばれ、いやされたことが書かれている。 長血と
は、長期間の出血を伴う婦人病で律法では、長血の者は汚れた者とされており、他の人に触
れると触れた人までが汚れた者とされていた。(レビ記15:25) この女は、12年間も長血をわ
ずらい続け、その間、ありとあらゆる努力をしたという。 

結局、医学も人もこの世のあらゆる方法もこの女を治すことができなかった。 しかし、イエス
の噂を聞いた女は、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。(マルコ5:28)」という信仰
を持ってイエスの着物に触った時、いやされた。 主も「あなたの信仰があなたを直したので
す。」
と言われた。

長血の女以外にも福音書に記されている主がいやされた病で、はっきり病名が書かれている
のは、足なえ、盲人、らい病、中風、つんぼ、口のきけない、死人が生き返る・・・などである。 
これらのいやしにはそれぞれ意味がある。 これらの病は信仰の歩みを正しくして行くにおい
て妨げとなるものばかりである。 

例えば、長血は人の内側から出て来るものが本人も周りの人も汚れる、つまり罪の影響を受
けている状態、足なえは信仰が弱くなっている状態、信仰がない状態であり、盲人は真理が見
えない、真理なるイエスが見えない状態であり、らい病は、病の特徴などを通して罪に関係して
いる。 中風はまともに信仰生活を歩めなくなった状態・・・ということである。 結局、信仰の歩
みの妨げとなるものである。 罪に関係することが多いと思われる。 「内側から、すなわち、
人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好
色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すので
す。(マルコ7:21^23 )」

主はいやし一つにおいても無意味にはなさらない。 単なる感情的にもなさらない。必ず主の
みこころがある。 教えを含んでいる。 罪とは「的外れ」の状態である。 ギリシヤ語のハマル
タノー「的を外す」という言葉から来たという。 キリストから焦点がずれている、キリストという
的からはずれている、それが「罪」と言えよう。
 
主がいやされた病は、求めてきた人たちが信仰の歩みを正しく行っていくために、その病が妨
げとなるから、いやされたと言える。 長血の女をはじめ その他の病も、主が本当に病と見
なされている。 信仰の歩みを妨げる病が神が見られている病である。 世の見方とは違う。 

また、この信仰の歩みを妨げる病は、病を足場に悪霊が働くことが多い。 病と悪霊は関係が
ある。 だから単なる生理的、生活習慣による、肉体的(遺伝とか、体質など)などの単なる病
は、必ずしも信仰の歩みを妨げるものとはならない。 悪霊が働かないからである。

パウロは肉体に一つのとげが与えられた。 このとげ、病について主に祈ると主は、「わたしの
恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからで
ある。」と言われた。(Uコリント12:9 ) 
三浦綾子さんも星野富弘さんも田原米子さんも、その
他、病や怪我、傷など一般的にいやしが必要と見られる方々の中で、その信仰の歩みにそれ
らの病や障害(故障)が妨げとなっていない人たちもいる。 そういう人たちにとっては、病など
がむしろ益になっていることが多い。そして神の喜ばれる働きをされている人たちもおられる。

もちろん、神はあわれみ深いお方であるから、どんな病であっても問題であっても祈り求める
ならば、答えてくださり、いやしてくださる。 だから医者にかかりながら、薬を飲みながら祈り
求めたらいい。 いやしてくださるであろう。  

しかし、信仰の歩みが妨げられている病は主イエス・キリストによっていやされる。 主イエス・
キリストしか、いやす方がおられない。 信仰の歩みが妨げられている病は、いやされる必要
がある。 真に祈り求めている者を主イエス・キリストが必ずいやしてくださる。

神は、人が悔い改めて真理を悟り救われてほしいと、またクリスチャン、未信者であっても、的
はずれな生き方から”キリスト”という的に焦点を定めて、真理を悟る、つまり、キリストを真に
知り、真に救われた歩み、立ってまっすぐに天の御国へと歩んでいくことを望んでおられる。
(Tテモテ2:4、Uペテロ3:9)

神は”キリスト”という的(まと)を確実に捉え歩む人を その道中、用いて、神の望まれる働
きをさせる。 そのことにより神ご自身が栄光を受けられ、その人自身も神の恵みに満たされ
る。 そして、その人は確実に天の御国へと向かうのである。

主は真のやもめ(ルカ7:21:この地上に頼るべきものがなく、キリストしか頼れない者)や立っ
てまっすぐ歩むにおいて、この世の方法も何も見出せなくなった者、この世の方法を取り入れ
ているようでも実は、切り捨てた者をあわれんでくださる。(医者にかかってはいけない、薬を
飲んではいけないというのではない。それらとキリストとどちらに重点が置かれているかが問
われている。) 

また あわれんでくださる、つまり いやしを現わされる”主の時”というものがある。 その”主
の時”までは、求めているクリスチャンにとっては 訓練、試練と言えるかもしれない。 しかし、
訓練、試練はいつまでも続くものではない。 主に祈り求めている限り 必ず”主の時”が来る。 
主のあわれみを受ける、実際を体験する時が来る。

今日、実際の病名がつくような病ではなくても、いやしが必要なクリスチャンが多いと思われ
る。 長血の女をいやし、足なえ、盲人、らい病、中風、つんぼ、口のきけない人をいやし、死
人を生き返らせた主イエス・キリストは今も生きておられる。 だから、今もなお、祈り求めて来
る者をいやしてくださる。

今週も、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶えず祈ること、神のこと
ばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 

★新約聖書    ヨハネによる福音書  3:27
       ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできま
      せん。

★旧約聖書 イザヤ書 19:22
   主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを
   聞き入れ、彼らをいやされる。



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