めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年3月22日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<古き良き信仰の勇者、斉藤宗次郎に学ぶ!>



★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1,2
   こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
   から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
   競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であ
   るイエスから目を離さないでいなさい。


●終末に入ったような現代において、クリスチャンの信仰に神の義と神の愛が兼ね備えられて
いることが、いよいよ必須となってきたように思われる。 そんなとき、ふと以前、読んだ本「聖
書に隠された 日本・ユダヤ 封印の古代史2(仏教・景教篇)」の中に記されていた斉藤宗次
郎のことを想い出した。 「めんどり通信」の最初で書いたが、もう一度振り返ってみた。 そし
て気を引き締めた。

-1877年、岩手県花巻で、禅宗の寺の三男として斉藤宗次郎は生まれた。 15歳の時、母
の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となった。 彼は小学校の先生となった。 一時
、彼は国粋主義に傾くが、やがてふとしたきっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読む
ようになった。 1900年、信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになった。 花巻の地で
第一号のクリスチャン。 斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは12月の朝6時、雪の降り積もった
寒い朝、豊沢川においてだった。珍しいことだと、橋の上には大勢の人が見物にやって来た。

これは、基督教が「耶蘇教(やそ)」「国賊(こくぞく)」などと呼ばれて、人々から激しい迫害を受
けていた時代のこと。 洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなった。 親からは勘
当され、以後、生家に一歩たりとも入ることを禁じられてしまった。 町を歩いていると「ヤソ、
ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられた。 それでも彼は聖書の神を信じた喜びにあふれて
信仰を貫いていた。 主が彼を導いておられたのである。 しかし、いわれのない中傷が相続
き、ついに彼は小学校の教師を辞めなければならないはめになってしまう。 

迫害は彼だけにとどまらず、家族にまでも及んでいった。 長女の愛子ちゃんはある日、国粋
主義思想が高まる中、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こし、何日か後、9歳と
いう若さで主の御元へ行った。 その葬儀の席上、賛美歌が歌われ、天国の希望のなかに
平安に彼女を見送ったが、愛する子を、このようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の内な
る心情は、察するに余りある。 彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになった。 朝
3時に起き、汽車が着く度に何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという生活だった。 重
労働の中、彼は肺結核をわずらってしまい、幾度か喀血(かっけつ)した。 それでも、毎朝3
時に起きて、夜9時まで働くという生活を続けた。 その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時
とした。 不思議なことに、このような激しい生活が20年も続いたが、体は支えられた。

朝の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけた。 小さ
い子どもを見ると、だっこして校門まで走った。 彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むこと
なく、地域の人々のために働き続けた。 自分の子どもを蹴って死なせた子どもたちのため
に。 新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めた。

やがて、1926年、住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日がやって来た。 花巻の地を離れ
るその日、‘誰も見送りに来てくれないだろう’と思って彼は駅に行った。 ところが、そこには、
町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、またたくさんの生徒たちが見送りに来てくれて
いたではないか。 神社の神主や僧侶もいた。 さらに一般の人たちも来て、駅じゅう人々で
ごったがえしていたのだ。 宗次郎がふだんからしてくれていたことを、彼らは見ていたのだ。
彼は、人にほめられたいなど、人を基準にしていたのではなく、ただ、神、主イエス・キリストを
基準に 物事を考え、思い感じることができるように 変えられていたのだ。 人々は宗次郎の
内から、かもし出されていたキリストの香りを感じ、宗次郎を通してあらわされたキリストを見て
いたのだ。 人々は、感謝を表しにやって来ていた。 身動きできないほど多くの人々が見送り
に来てくれた。 そのなかのひとりに、宮沢賢治がいた。 宮沢賢治は、斉藤宗次郎が東京に
着いてのち、彼に最初に手紙を出した人である。

宮沢賢治はその後5年後、有名な「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくった。 この詩
は、最後は「そういう者に私はなりたい」という言葉で締めくくられている。 この詩のモデルに
なったのが、この斉藤宗次郎である。

【「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、決して怒らず、
いつも静かに笑っている。 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分
を勘定に入れず、よく見聞きし分かり、そして怒らず、野原の松の林の陰の小さな藁葺きの 
小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行って

その稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩
や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、日照りのときには涙を流し、寒さの夏は
おろおろ歩き、みんなに木偶(でぐ)の坊と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされずーーそうい
う者に私はなりたい。」】

●宮沢賢治は斉藤宗次郎の生き方に深い共感を覚えたようである。 たとえ迫害されて

も決して怒ることをせず、自分の利益を追求せず、神の御言葉に従って生きていた人だった。
宗次郎は有名な人ではなく、 むしろ名も知れない人。 しかし、名も知れず、このように 
キリストの足跡を辿って(たどって)行った人が まだまだ、いる。 彼らは、この世において
は、名誉も地位もないが、神から見たクリスチャンである。

しかし、彼らが、主を信じた当初から そうだったわけではない。 主が彼らひとりひとりに様々
な試練、訓練を与えられた時、彼らは絶えず主に祈り求め、主が自分と共にいてくださることを
信じた。 主は彼らの祈りに応えられ、聖書の約束どおり信仰は強くなり、神の愛と神の義を
身に着けることができたのである。 彼らが結んだ実を、主は喜ばれた。 宗次郎をはじめ古
き良き真のクリスチャンたちが、絶えずしたことは、祈りつつ聖書を読むこと、祈ること、主と交
わることであった。 そのようにしてきた古き良き信仰は、現代の我々が見習うべきであろう。 

今週も、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶えず祈ること、神のこ
とばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 


★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22〜26
   しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 この
   ようなものを禁ずる律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、様々の
   情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 もし私たちが御霊によって生きる
   のなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 互いにいどみあったり、そねみあっ
   たりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。



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