めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年3月15日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<真のクリスチャンの人生は戦いの人生!>



★新約聖書 テモテの第一の手紙 6:12
   信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。

★新約聖書 第二コリント人への手紙  10:3,4
   私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
   私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるも
   のです。

●いつの時代にも”戦い”を美化することは賛成されない方が多かった。  しかし、過去から
現代に至るまで”戦い””戦争”は絶えることはなかった。 「戦争反対」のスローガンを掲げて、
多くの人々が闘ってきた。 ”戦い”をなくしようと”闘い”は繰り広げられてきた。 結局エゴと
エゴがぶつかり合って、また新たな戦いが生まれて・・・と人と戦いは無縁のものにはなれな
いようである。

新約聖書ヤコブの手紙4章1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるので
しょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」
と記されている。  ”エ
ゴとエゴがぶつかり合う戦い”という一般的な戦争、争いは、やはり反対すべきであろう。 しか
し、聖書は一方でクリスチャンに”戦う”ことを命じている。 「信仰の戦い」「主権、力、この暗や
みの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する戦い」
である。 

クリスチャンは地上の人生を勇敢に戦い、信仰を全うすることで、神が与えて下さろうとしてい
る「いのちの冠」すなわち「永遠のいのち」を獲得できる。(Uテモテ4:7,8、ヤコブ1:12、黙示録
2:10) 
この戦うことについて、戦いの勇者ダビデから多くを学ぶことができる。

ダビデは神に選ばれた器であるが、その人生は「戦いの人生・波瀾万丈」といえるものであっ
た。 ダビデは3回、油注ぎを経験した。(Tサムエル16:13、II サムエル2:4、II サムエル5:3) 
すなわち豊かな聖霊の注ぎ、満たしである。 これがあったからこそダビデは波瀾万丈の人生
を勝利で終えることができたと言える。 また、さまざまな問題や困難に直面しても幼子のよう
に神によりすがり、神のことばに従い通したダビデを神はこよなく愛された。 神から愛される
ことも勝利を得る秘訣であろう。 

ダビデの戦いの人生は、ペリシテ人の巨人ゴリアテとの一騎打ちから始まった。 この戦いの
勝利の功績によりサウル王から軍事司令官として任命され、ダビデは数回に渡りペリシテ領
侵攻を指揮し戦った。 ダビデが指揮した戦いはことごとく勝利した。 民衆の支持を集めたダ
ビデはサウルから命を狙われるようになった。 ダビデは逃亡生活に入らざるを得なくなった。 

サウル王はダビデを殺そうと執拗にダビデを追いかけた。 ダビデはサウル王と戦いながらペ
リシテ人との戦いも続けた。 山地をあちこちとさまよったり、野宿したり、洞穴で過ごしたり、
助けた相手にも裏切られ、休む間もなく、あちこちと逃げまどった。 身の危険を感じた時には
気が狂ったまねをして辛うじて命を得たりした。 ある時には1年4ヶ月も敵の地(ペリシテ人の
中)で過ごさねばならなかった。 ダビデの心は惨めさに泣き、神に心から叫んでいた。 ダビ
デは「主よ、あわれんでください。」と叫ばずには過ごせない日々を送っていた。

サウル王の死後もイスラエルは南北に分かれて争うことになり安堵する暇もなかった。 その
後、ダビデは全イスラエルの王となり、イスラエルを統一したが、ペリシテ人との戦いは続い
た。 国内の体制を整え、周辺国に対する攻勢に入り、次々と敵国(ペリシテ、モアブ、ツォバ、
アラム、エドム)を制圧した。 国外が落ち着いたかと思うと次は国内に敵が現われた。 ダビ
デ王の子どもたちが争いを起こし、憎み合い殺し合いの結果、生き残ったアブシャロムが父ダ
ビデを殺そうと刃向ってきた。 ダビデ王はアブシャロムから逃れるために、再び逃亡生活に
入った。 結局、息子と戦う羽目になり、息子アブシャロムはダビデ王の家臣の手によって殺
された。 

民の統制のためには、息子の死のために嘆くことを許されず、イスラエルの王として毅然と
立ったのもつかの間、再びペリシテ人の活動が活発になり、戦いの手を下ろすことはできな
かった。 老境に入っても後継者選びについて落ち着かない日々が続いた。 

ダビデの生涯は、日々が主に叫び、祈りであった。 旧約聖書詩篇にはダビデの祈りが多く
書かれているが、ダビデが生涯したことは、まず主を愛したこと、主に叫んだこと、主に祈っ
たこと、そして戦ったことである。 戦いについても、主が、戦ってくださるということをよく知って
いた。(詩篇35:1「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」)  ダビデの望んだ
ことは、主が彼とともにおられることであった。(Tサムエル18:14) そして事実、波瀾万丈の
人生のダビデと共に主はいてくださり、共に歩んでくださり、導いてくださった。 

真のクリスチャンはこの地上の生涯をずっと安穏と暮らすことができるものではない。 サウル
王がダビデを狙ったように、真のクリスチャンならサタンが狙うのである。 しかし、そのような
過程を神は試練、訓練としてくださり、クリスチャンの自我を砕き、肉を切り取り、聖別し、信仰
と霊を強めてくださる。

そして、ダビデがどのようなときにも「死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません。(詩篇23:4)」
神に全き信頼できたように、真のクリスチャンも弱さ、惨めさ、恐れ、不安、困難の中にあって
も神の愛と慈しみを感じることができ、主に信頼し切ることができるようにしてくださる。 主に信
頼し切る者を神は愛してくださるのである。

この地上生活の中では、霊の戦い、信仰の戦いだけでなく、様々な戦いが多い。 それらの戦
いを主によりすがり、主に求め、主に信頼する者は、主が戦ってくださる。 勝利を与えてくださ
る。 そして、何をすべきか、すべきことをも教えてくださる。 そして表面は、たとえ波瀾万丈で
あったとしても、心の奥底、霊は強くなり、何事があっても揺るがなく、試練の中であっても神の
あわれみ、慰め、愛を痛感することができる。 

ダビデの生涯を見てもわかるように、この地上で生きている限り、真のクリスチャンであれば戦
いは続く。 それらの戦いは、永遠のいのちを獲得する戦いなのである。 主と主のことばに従
おうとすればするほど戦いが増してくる。 それでも主に信頼し続け、聖霊の導きを求め、歩み
進む者の手を主は支えてくださる。 

真のクリスチャンであるためにも、ダビデ王のような素直な心をもって、日々、主イエス・キリス
トから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶えず真剣に心から祈ること、神のことばと信じて
時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。

★旧約聖書 箴言 8:17
   わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

★旧約聖書 詩篇 37:23,24
       人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。  その人は倒れても
   まっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。 

   


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