めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年2月22日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神とキリストを知っているクリスチャンと知らないクリスチャン>


★新約聖書 マタイによる福音書 11:27
       すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子
       を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者
       がありません。

★旧約聖書  詩篇 25:14
       主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。

★新約聖書 ヨハネの第一の手紙  5:20
       しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っ
      ています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいる
       のです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

●福音書にイエスとパリサイ人や律法学者、ユダヤ人たちとのやりとりが多く書かれている。 
その度、パリサイ人や律法学者たちは、イエスのなさること言われることに、ことごとく反対、反
抗し続けた。 そればかりか、安息日にイエスが病の人をいやすと、どのようにしてイエスを滅
ぼそうかと仲間内で相談したりして、イエスを殺すことに全神経を尖らせていた。

パリサイ人たちに扇動されたユダヤ人たちも、イエスのなさること言われることに難癖を付けて
いたが、そのような中でもイエスを信じたユダヤ人もいた。 彼らに「律法の奴隷であるユダヤ
人が、イエスを信じて、主のことばにとどまり本当の弟子となれば、真理を知り、解放されて自
由となる。(ヨハネ福8:31^36)」と言われた。 しかし、多くのユダヤ人は、自分たちはアブラハ
ムの子孫であるから、すでに奴隷の身分ではない、解放されていると言い張り、結局、イエス
を本当に信じたのではないことが暴露された。 そして、信じていないばかりか、イエスを殺す
側にたやすく回った。

今日、我々がイエス・キリストを信じた、と言っても本当に信じたのかどうかは、少し試されれば
わかるというものである。 実際、イエスとイエスを信じたユダヤ人たちのやりとりでは、主がこ
とばを言われるごとに「アーメン、そのとおりです。」とへりくだるのではなく、自分たちの思い、
考えを主張して、結局、主のことばを受け入れようとしていない。(ヨハネ福8章他) 

自分たちの思い、考えを主張することはサタンの望むことであり、世も推奨することである。 
しかし、罪がどこから入ってきたか、それは人が神に依り頼まず、蛇(サタン)に惑わされ、蛇
の言葉を神のことばより優先したところからであった。 その時から人は罪人になった。 また
 この世の君はサタンである。 罪人も世も支配しているのはサタンである。 だから、人(クリ
スチャン)が世と深く関わりあうことは神のみこころに反する。 

一旦、イエスを信じたユダヤ人たち、しかし後にはパリサイ人や律法学者、祭司長たち、他の
ユダヤ人たちと共にイエスを十字架につけた。 このことは、2千年前の過去のことだけではす
まない。 なぜならば、終末には同じようなことが再現されるからである。 聖書に たとえとし
てのかたちではあるが、そのように受け取れる。 ことわざにも「歴史は繰り返す」という言葉が
ある。 その通りである。

2千年前、イエスがユダヤ人たちに「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。も
し、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。(ヨハネ福8:1
9)」
と言われたが、現代のクリスチャンに対しても言われている。 一般的には、イエス・キリス
トを信じたならば、救われるといわれる。 その通りである。 しかし、それで終わりでないことも
聖書は記している。 当時と同じように、イエス・キリストを信じても、本当の意味で、イエス・キ
リストも神も知っていないというクリスチャンは有り得るのである。 キリストを知っていないクリ
スチャンは、いつでも神の敵に回る可能性が十分なのである。 後の裁きを考えるならば、恐
ろしいことである。 

本当に神とキリストを知っていたならば、神のみこころを行う。 主イエス・キリストの喜ばれる
ことをするであろう。 第一ヨハネ2:3「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私
たちは神を知っていることがわかります。」
とある。 また「 神を知っていると言いながら、その
命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。(Tヨハネ2:4)」
とも
書いてある。 

今日、クリスチャン、キリスト教会といっても どうも様相が変わってきたようである。 主イエ
ス・キリストを本当に知っているというクリスチャン、教会が少なくなってきたのではないかと思
われる。 神が忌み嫌われることばかりが教会の中にクリスチャンの中に流行る。 「聖霊の
第3の波の教理、「後の雨」の教え、回復の教え、セルチャーチ、トロント、ペンサコーラ、ヤベ
ツの祈り、聖書改ざん、エキュメニカル運動、目的主導型教会、セカンドチャンス・・・・。 列挙
すれば枚挙にいとまがない。 そういうことが教会を席巻しているという。(エレミヤの部屋
NO.601 剣の刃に倒れる他、参照) 

我々は、そういう風潮に流されず、真に神を知っていきたい、キリストを知っていきたいもので
ある。 そのためには、幼子のように絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねるこ
と、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。 そして、主にご自身を知ら
せていただきたいものである。

★新約聖書 マタイによる福音書 11:25,26
       そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
       これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
       そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 



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