めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年2月15日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神の恵みを何一つ無駄にしてはいけない!>




★新約聖書 第二コリント人への手紙 6:1
       私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けない
       ようにしてください。 (無駄にしてはいけません。KJV訳)

★旧約聖書(口語訳)  イザヤ書 51:1
       義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あ
   なたがたの掘り出された穴とを思いみよ。

●罪という言葉は通常よく使い聞かれる言葉であるが、今日ほど「罪」の意味合いが軽くなっ
ている時代はないであろう。 「罪悪感」という言葉の本当の意味合いも、すでに昔のものと
なってしまった。 巷では「罪悪感」という言葉を おもしろおかしく使用しても、真面目に使用す
ることなどなくなってきた。 現代、「罪」は人間にとって苦しみの重いものではなく、軽くなって
取り立てて考え込まなくてもよくなってきたように思われる。 

しかし、真のクリスチャンは、神のあわれみにより「罪」を「罪」として知らされ、悔い改めに導か
れた。 そして、イエス・キリストが自分の罪のために十字架で死んでくださり、3日目によみが
えられて今も生きておられる。 だから、自分もこのキリストによって生きることができると悟ら
せていただいた。

そのことを知ったクリスチャンのして来たことは、とにかく祈るということであろう。 神の御心を
知りたくて知りたくて、わかってもわからなくても、とにかく祈りつつ聖書を読んだということであ
ろう。 読んだとき、わからなくても本当に神の御心を知りたいと願う者には、不思議な方法で
聖霊が教えてくださるものである。 祈りについてもイエスは「 あなたがたは今まで、何もわた
しの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなた
がたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ福16:24)」「祈りなさい。」
と仰せられた。 
罪の問題も一度心から悔い改めたから終了、というのではない。 日々の生活の中で、クリス
チャンであっても つい罪を犯してしまうことも多い。 だから、その度、心から神に悔い改めの
祈りをしてきよめていただく。

真のクリスチャンは、祈ることにより神の恵みがわかってきた。  大きな恵み「キリストの救い」
だけでなく、神は真のクリスチャンに、日々の生活の細々したところまで恵みと祝福で満たした
いと願ってくださっている。 だから、たゆみなく祈り求める、どんなことでも祈る、日々絶えず、
主に祈り尋ねる者たちは、主が祈りに答えて下さる方であることを体験する。 祈りの内容が
簡単なことから複雑で重いことまで様々であろうが、主が一番いいときに答えをくださり、かな
えてくださる。 

ただ我々クリスチャンは、恵み慣れしてはいけない。 始めのうちは、主に感謝することをして
いたクリスチャンが、いつの間にか恵み慣れして、感謝の心が失せてしまうというこは有り得
る。 神の恵みは、我々人の側からのものが何もなく、ただ神からの一方的な恵みであるゆえ
に無駄にしやすくなることも事実である。 

苦労して手に入れたものは大切にするが、簡単に手に入れたものをおろそかにするという人
間の悪い癖がでないようにしなければならない。 恵みをくださるために、「キリストは神の御姿
であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた。 キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのだ。(ピリピ2:6^8)」 

「私はクリスチャンである」「私は主イエス・キリストを信じている」と告白する者は、「あなたがた
の切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。(イザヤ 51:1) 」
のみことば
通り、自分のクリスチャン生活の始まりがどこにあったか、自分はどこから救われたかを思い
出してみるとよい。 

確かに神は罪を悔い改めたならば赦してくださる。 以前の自分(罪の中で死んでいた状態)と
は違う者とされる。 しかし、自分がどこから救われたか、自分はどんなところにいたのか、思
い出すことは人をへりくだらせる。 神から受けた恵みの大きさを、そのたびに思い知り感謝す
ることができる。 

「主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの
歩みをたしかにされた。(詩篇40:2)」
のみことばを想うとき、著者は自分の以前の状態、状況
を思い出す。 決して忘れない。 しかし、そのことで責められるものは何一つない。 主イエ
ス・キリストの救い(罪の赦し)が著者を覆っているからである。 また神がそんな著者を救って
くださったばかりか、今現代も恵みの岩の上に立たせて下さっていることを体験させてくださっ
ているからである。 だから受けた恵みをいつも思い出しつつ、絶えず感謝して祈るのである。 

主イエス・キリストは生きておられる!!神は我々人の心の中を見ておられる。 「わたしを愛
する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。(箴言8:17)」「人が
神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(Tコリント8:3)」
と聖書に書かれてい
る。 そして神が我々に望んでおられることは「すべての事について、感謝しなさい。(Tテサ
5:18 )」
である。

いのちの冠(永遠のいのち)は、真に神を愛する者に与えられるのである。(ヤコブ1:12) そし
て、いつも主に感謝している者は、日々絶えず祈り、聖書を神のことばと信じて読み続けていく
であろう。 そして主に従っていくであろう。 今週も主イエス・キリストから目を離さず、絶えず
主に尋ねること、絶えず祈ること、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていき
たいものである。

★旧約聖書  詩篇 62:12
       主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

★旧約聖書  詩篇 103:2
   わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。



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