めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年1月18日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<後の世で神からの栄誉を受ける勝利者の歩み>



★旧約聖書   詩篇 23:4^6
   たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私ととも
   におられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。   私の敵の前で、
   あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あ
   ふれています。   まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来
   るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

●人生の歩み方においては、この地上で成功する歩み方、有意義に生きる歩み方、人から賞
賛を得る歩み方など、人によって千差万別である。 聖書の中にも様々な人物が登場してくる
が、彼らの生き方を知ることは、神が我々人に、神の望まれる生き方、神が成功したと認めら
れる生き方を知ることになる。 この世の基準と聖書の基準は違う。 この世がいう成功と神が
いわれる成功は違う。 神が成功したといわれることは、すなわち人が死後、永遠の命の冠を
得るということである。(ヤコブ1:12、ピリピ3:14、Uテモテ4:8)

旧約聖書のダビデという人は、神に従い、そして神に愛された人である。 このダビデの生き
方を見るとき、神が我々クリスチャンに望まれている生き方を学ぶことができる。 「人生山あ
り谷あり」ということばがあるが、ダビデの人生の場合、どちらかといえば「艱難辛苦」「波瀾万
丈」ということばの方が当てはまるようである。 

概略を記すと、ダビデはエッサイという人の8番目の息子。 今から約3千年前、神の命令によ
り預言者サムエルから油を注がれた。 つまり王として神から召された。 当時のイスラエルの
王サウルに仕えるようになったが、イスラエルの敵であるペリシテ人の戦士、巨人ゴリアテを一
騎打ちで、それも武器は、一つの石投げと5つの石だけで勝利した。

そのことで一気に有名になり、その後の多くの戦いでも勝利に勝利を重ね、サウルからねたま
れ命を狙われて逃亡生活の身となった。 ラマ、ガテ、ノブの町、アドラムの洞穴、ハレテの
森、・・・荒野や要害に宿ったり、時には身を守るために気違いの装いをしたり、密告にあった
り、イスラエルの敵であるペリシテ人の地で1年4ヶ月も過ごさねばならない時もあり、様々な戦
いありと気の休まるときがなかった。 何度も涙の谷を通った。 

命を狙っていたサウルが死んで、ヘブロンで後に、全イスラエルの王となって落ち着いたかの
ようであるが、戦いの生活は終わることがなかった。 モアブ人、アモン、ペリシテ人などとの戦
いが続いた。 

そのようなとき、家来ウリヤの妻、バテ・シェバを見初め、彼女を妻にするため謀略によってウ
リヤを戦死させるという罪を犯した。 預言者ナタンにより指摘され、ダビデは深く悔い改め
た。 しかし、バテ・シェバがダビデに生んだ子は、病気になり死んだ。

子が病気のとき、ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、
地に伏していた。 周りの者たちが、ダビデは倒れてしまうのではないかと思われるくらいで
あった。 7日目、子どもが死んだことがわかると、ダビデはからだを洗い、身なりをきちんと整
えて、主に礼拝をしてから食事を取った。 その様子に家来たちが驚いたほどである。

ダビデは家来たちに、要は、希望がある時は神に必死に求め、事がなされた後もそれを受け
入れる。 神のなさることは最善だ、ということを態度で示した。 神はそのダビデの信仰を見
て、良しとされ、後にバテ・シェバとの間に、後継者となったソロモンが生まれた。 

しかし、安堵の時はまだまだ来なかった。 息子同士が憎みあい、結局、三男アブシャロムが
長子アムノンを殺してしまった。 そして、このアブシャロムはダビデの政権を狙って、イスラエ
ル人の心をつかんだため、ダビデはエルサレムから逃げる羽目になった。 自分の子どもと王
位をめぐって戦わなければならないことほど悲痛なことはない。 それでもわが子は愛おしいも
のである。 アブシャロムの死が報告されると、ダビデは自分が代わりに死ねばよかったと激
しく泣いた。

ダビデは年老いて死期が近づいたと見える時がきたが、王位継承争いが起こった。 結局、ダ
ビデはソロモンを後継者に選び、やがて死んだ。 ダビデの一生は、戦いであった。 しかし、
どの戦いの時にもダビデは、神の方に心を向けた。 神のみこころを最優先した。 そこにダ
ビデの神に対する信頼、信仰があらわれている。

また、ダビデに次から次と起こった出来事は、艱難辛苦という言葉がふさわしいほどであり、
ダビデの体も心も霊も疲労させるものであった。 しかし、ダビデの心の奥底、霊では、その
度その度、神への信仰と神への愛が固められていった。 

ダビデの歌である冒頭の詩篇23篇を読めばわかる。 敵との戦いに次ぐ戦い、その中でも息
子との戦いは、自分が死の陰の谷を歩くこと以上の涙の谷を通ることであった。 それでも、あ
くまでも神を第一とし、神に従い通した。 だから神はダビデを愛された。 そして、ダビデの王
はとこしえに続くという約束を与えられた。

ダビデは、どんなときでも神から愛されていることを知っていた。 感じていた。 ダビデは神を
拠り所とし、安息のない日々を送っているようでありながら神の大きくて強い御手の中で安んじ
ていた。 敵が彼を追ってきているのではなく、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みと
が、私を追って来るでしょう。」
と言い切ることができた。

神に愛された者の姿である。 出来事だけ見れば、悲惨な一生だ、悲劇のヒロインだと思われ
がちであるが、神に愛された生き方とは、このようなものである。 愛されているから訓練、試
練を受ける。 また神は我々に耐えられない試練など与えたりはなさらない。(Tコリント10:13) 
たとえ崖から落ちたとしても 谷の底近くには、受け止めてくださる神の御手がある。 

『イエス・キリスト』を真の神とし、救い主として信じ、従っていき、日々生きておられるキリストの
愛を体験しながら、この地上生活を永遠の天の御国へ向かって歩んでいきたいものである。 

★新約聖書 ヘブル人への手紙  12:11
       すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものです       
        が、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。


めんどり聖書研究会