めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年1月11日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神のことば、キリストは生きておられる、まことの神である>



★新約聖書 ヨハネの第一の手紙  5:20
       しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っ
      ています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいる
       のです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

★新約聖書  ヘブル人への手紙  7:25
       したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリ
       ストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

●現代、「主の復活」がクリスチャン、教会の中で疑うような事態になりつつあるということを聞
いたことがある。 それを教会に持ち込んでいるのが、キリスト教の神学、教理に精通したと思
われる(?)神学者や注解書であるということだ。  HP”エレミヤの部屋”NO.287、NO.343によ
るならば、彼らはQ資料や、「死海文書をもとにした嘘」をすっかり信じ込み、それを教会に持ち
込んでいるという。 教会の牧師、教師たちも吟味なしに安易に受け入れ、信者たちを惑わす
手助けをしているという。

福音はエルサレムから西回りで進められたことが使途行伝に記されているが、現在最も西の
国、すなわち西洋文明の極みの国、アメリカにおいて福音は、変質してしまったように思われ
る。 「キリストの復活は、歴史的な事実ではない、民衆の願望が作り上げたものである。」な
どはこのアメリカの神学校においては、堂々と語られ、世界のキリスト教会に影響を与えてい
るようである。

日本では、昔からアメリカ帰りは箔が付く、といわれてきた。 学校、研究分野、会社、野球、
ゴルフなどスポーツ・・・等々。 キリスト教会も同様である。 アメリカの神学校出身者は箔が
付く。 共産主義の国、中国などのように正しい福音、神学を堂々と伝えられないのも問題だ
が、偽教理を堂々と浸透させられるのは、もっと問題である。 

アメリカではすでに、503C教会法”という法律ができたという。 キリスト教の本質的な部分、
キリストの神性、処女降誕、十字架の贖い、救い、「復活」、再臨などを語ることが禁じられ、語
る教会には税金が課せられ、語らない教会は免除されるという。(小石牧師のHPより)

世界のキリスト教会に影響を与えるアメリカの神学校においては、偽りの神学がとかれ、ま
た、この国の集会においては、獣の霊が注がれているという。 筆者もこの事実を知らなかっ
た15年くらい前、アメリカのそのような集会に参加したことがある。 当時、何も知らなかったと
はいえ、恐ろしいところに参加していたものだ。 よくぞ返ってこれたものである。 ただただ神
の哀れみと恵みに感謝する。

さて、主が地上におられた当時、弟子たちは、主が十字架にかけられる前に「十字架の死と復
活」についてイエスから直接、聞いていた。(マタイ17:23,20:19,ルカ9:22,18:33)  弟子たちの反
応は「彼らは非常に悲しんだ」と記されている。(マタイ17:23) また、実際、イエスが復活され
た後、そのことを、真っ先に直接、復活の主にお会いしたマグダラのマリヤたちから知らされて
も、なかなか信じられなかったようである。(マルコ16:11) 復活されたイエスも「なぜ取り乱して
いるのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。(ルカ24:38)」
と言われた。 確かに「復
活」を信じることは難しいこと、すなわちハードルが高いことなのかもしれない。

イエスが復活されてから、はや2千年と時が過ぎた。 2千年の間、全部のクリスチャンとは言
えないが、多くの教会、クリスチャンはずっと「主の復活」を信じてきた。 つい最近まで多くの
クリスチャン、教会は、主の復活を疑う余地もなかったであろう。 しかし、教会もクリスチャン
も変質してきた。 主の十字架の死と復活、特に「主の復活」 は、「民衆の願望が作り上げた
もの」との聖書と反対の主張が幅を利かせ始めてきた。 明らかにアメリカが主導している。

しかし「キリスト教」というとき、「キリストの復活」失くしては、本当の『キリスト』を伝えることなど
できない。 「キリストの復活」失くしては、「十字架の死」も、ただ単に学校の教科書に、単なる
教材としてだけの役割で終わってしまう。 

『キリスト教』とは、単にキリストの教えというのではない。 イエス・キリストを信じる者一人ひと
りが、生きたキリストを体験することである。 一度体験するだけというのではない。 体の寿命
が来るまで、生きたキリストを体験し続けることである。 キリストに、キリストを信じる一人ひと
りの内を占有していただくことである。 

「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。(ローマ14:8)」というみことばがあ
る。 キリスト、すなわち神の霊、イエス・キリストの霊、聖霊が、一人ひとりの内に浸透していく
ことが、神が望まれていることであり、それが『キリスト教』である。 

「主の復活」「主は今も生きておられる」とは、口先だけの告白、言葉ではなく、”実際”なのであ
る。 この”実際”があるから聖霊に触れられる人は、キリストを体験し、主イエス・キリストの影
響を受けるのである。 すなわち傍から見たら「(よい意味で)変わった」と見られるだろうし、自
分でもわかるようになる。 

「生きたキリストを体験する」。 そのための手段は、とにかく祈ること! 聖書を神のことばと
信じて読むこと! クリスチャン同士でも正しい交わりをすること! その中でも、祈りである。 
時間を作って祈る! 時間をかけての祈り! これが一日一日の我々の歩みとなることを神
は望んでおられる! 真心からの祈りを主は聞いておられる。 

そのような者は生きておられるキリストを体験するであろう。 惑わしからも守られるであろう。 
『イエス・キリスト』を真の神とし、救い主として信じ、従っていき、生きておられるキリストを体験
しながら、心が潤いながら、この地上生活を永遠の天の御国へ向かって歩んでいきたいもの
である。 

★新約聖書 マタイによる福音書  16:21
       その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者
       たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを
       弟子たちに示し始められた。

★新約聖書  ヘブル人への手紙  13:8
       イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。



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