めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年12月14日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神は人の本音、本心を見ておられる!>



★新約聖書   ヨハネによる福音書  6:56
       わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちに
   とどまります。 

★旧約聖書  第一サムエル記  16:7
       ・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

●イエスが公にキリストとして立たれ、ユダヤ人の目の前で様々な奇跡、いやしをなされた。 
すなわち、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになった。 彼
らはそれらのことを目の当たりに見てきたばかりか5つのパンと2匹の魚から男だけで5千人も
の人々が満腹するほどに食べたという奇跡も体験した。 

そのような度、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。(マタイ9:33)」と言っ
たり、「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると
従うのだ。(マルコ1:27)」
などとその教えに驚き、神をあがめた。

当時、ユダヤ人はイエスが世に現れる千年も前から、メシヤ(救い主)を待ち望んでいた。(イ
ザヤ11:1^5)
 ただユダヤ人の望んでいたメシヤは、イスラエルの王国をローマ帝国の支配か
ら逃れさせ、王国の復興をさせて下さるという政治的な救済を成し遂げるような方であった。
(ヨハネ福6:15) 彼らの本心、本音はいつもそのところにあった。

だからイエスが彼らに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言われたとき、「これはひどい
ことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。(ヨハネ福6:60)」
と主のことばを拒否した。 
いくら主が行われる奇跡を見、体験して主をほめ、神をあがめたとしても、彼らの本音、本心
は、主の望まれることではなく、彼ら自身の願い、考えから動かなかった

主のそのことばを機に、ユダヤ人たちだけでなく弟子と呼ばれていた人たちでさえイエスから
離れて行ってしまった。 12弟子たちにも同じようなメシヤ観はあったが、彼らはキリストのこと
ばに聞き従おうとしていた。 主を裏切ったイスカリオテのユダは別として他の11弟子たちは、
自分の願いや考えがあったとしても本心はキリストに聞き従い学ぼうとしていた。 

イエスが「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(ヨハネ福6:67)」と言われ
たとき、 ペテロが「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのこと
ばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(ヨ
ハネ福6:68,9)」
と答えたことからわかる。

主が言われた「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わ
たしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
は、 裏を返せば「キリストの肉を食べない、
血を飲まない者は、永遠のいのちを持たない。 よみがえらない。」ということである。 すなわ
ち、主のことば、聖書のことばを受け入れず、絶えず祈らない者は、永遠のいのちを持つこと
はできない、ということである。 厳粛なことばである。 

キリストのことば、すなわちキリストを全面的に受け入れるかどうかが永遠のいのちを得るか
得ないかを決定するとも言える。 黙示録に、いのちの書に名が書かれた者だけが天の御国
に入り、名が書かれていない者は火の池に投げ込まれると書いてある。(黙示録 21:27,15) 

主が語られたことば、聖書のことばには、ともすれば受け入れがたい面があるかもしれない
が、全面的に受け入れていきたいものである。 我々の本心が、自分の願望や考えに固執せ
ず、主のみこころを知って、主に従っていきたいものである。

また、案外、自分の本音、本心に気づかずに、神のみこころに沿わない方向へ向かっていると
いうこともあり得る。 しかし、そんな場合でも主イエス・キリストを心から信じ、主に従おうと心
に決めて、日々祈っている者には、主が教えてくださるものである。 そして、もし進むべき道
が間違っていたならば、軌道修正してくださる方である。 

終わりの日には永遠のいのちを受けるため、よみがえるためにも、キリストのことばを真実と
して、全面的に受け入れていきたいものである。 そのため日々、祈りつつ聖書を読み、祈り
に祈って聖霊に導いていただきたいものである。

★旧約聖書  詩篇 51:17
       神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさ
       げすまれません。

★新約聖書    ローマ人への手紙  12:2
       この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、
      何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新に
      よって自分を変えなさい。


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