めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年8月31日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<主にとりなしをしていただける者とは>



★新約聖書   ルカによる福音書  22:31,32
       シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願っ
       て聞き届けられました。
       しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だか
       らあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

★新約聖書   ローマ人への手紙  8:33,34
       神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
       罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であ
       るキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

●聖書を見るならば、12弟子は神の前で特別な位置を占めている。その中でもペテロは筆頭
頭であり、代表であり、最後までキリストに従い通した人である。  「あなたはペテロです。わた
しはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ
 16:18)」
という主イエスのことばからもわかる。 彼は最初から忠実だったわけではく、神から
見て問題がない優等生だったわけでもない。 しかし、主のために逆さ十字架で殉教するほど
勇敢な弟子と変えられていった。 

神の前で特別な位置を占めていたはずの12弟子の中には、イスカリオテのユダのように主を
裏切っただけでなく、遂には滅んでいった者もいる。 後にこのユダに替わってマッテヤが選ば
れた。 イエスは最初12人を「新しいイスラエル」を形成するために選ばれた。 新約のイスラ
エルである教会の12弟子は、旧約のイスラエル12部族に通じる。 事実、マッテヤが選ばれ
12が回復した後、弟子たちの上に天から聖霊が降り、教会が誕生した。 

さて、イエス・キリストは、十字架への道を進まれた。 このとき弟子たちも大きな試練を経験
することとなる。 弟子たちの信仰が揺さぶられ、本当に主に従う心があるかどうか、彼らの本
心が明らかにされることになった。 この試練というのはクリスチャンになると必ず与えられるも
のである。 外部からの反対や圧力を受けたり、自分の内側から疑問や不平、困難などが出
てきたりなど人によりその試練は違う。 クリスチャン(原語ではクリスティアーノス”キリストに
従う者”という意味)の原語の意味合いからも、明らかにクリスチャンは試練を通ることはうか
がえる。 

しかし、この試練によって信仰は試され鍛えられる。 それは我々がこの世でどんなことがあろ
うとも、もし様々な不幸や悲劇的なこと、困難な問題があろうとも、まっすぐ永遠の命への道を
逸れることなく歩んでいけるためである。 聖書にもこう記してある。 
★あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなた
を苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・(申命記 8:16
★苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びまし
た。(詩篇 119:71 )
★信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キ
リストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(1ペテロ 1:7 )

●この試練の結果、”主を裏切る”行為をしてしまった弟子がイスカリオテのユダとペテロであ
る。 ある意味クリスチャンのタイプをあらわしているようにも思われる。 イスカリオテのユダ
のように試練に遭遇すると、イエスを裏切ってしまう。 つまり信仰生活の中で問題なく順調に
ことが進んでいるときには感謝して、喜んで信仰生活を送っているが、自分の願っているように
事が進まないと、信仰生活がばからしく思えて、キリストから離れてしまう、キリストに従わない
クリスチャン。 

またペテロのように試練に遭遇して動揺し、思わず主を3度も否んでしまったが立ち直り最後ま
でキリストに従っていくクリスチャン。 このとき試練に遭遇して動揺しない弟子はいなかった
が、ペテロは3度主を否み、人間の弱さを説明するときに反面教師的教材として用いられるこ
とがある。 しかし、ペテロは他の弟子たちと比べると良心が鋭敏でしかも勇気があった者と言
えるかもしれない。 イエスが捕らえられたとき弟子たちはクモの子を散らしたように逃げて
行ったが、その後捕らえられたイエスを追って大祭司の庭まで行ったのは、ペテロともう一人
の弟子だけだった。(ヨハネ福18:15) 

イエスを裏切ったということではユダとペテロは同じだが、行き着く先が違っていた。 一方は
滅び、一方は天の御国。 その違いはどこにあるのか。 人間としての見方であるならば二人
の間に大差はなかったようである。 イエスはユダもペテロも愛された。 最後の晩餐のときイ
エスはイスカリオテのユダの足をも洗われた。 主の側からの違いはなかった。 結局、彼らか
らどう主の愛に応答したかに違いがあったと言えよう。 

しかし、ペテロが回復できた一番大きな要因は、やはりイエスのとりなしであろう。 主が信仰
がなくならないようにと祈ってくださったならば、その通り信仰がなくなることはない。 信仰があ
るならば、どのようなことが自分の身に降りかかろうと倒れることはない。 どのようなことも乗
り越えていける。 失敗したとしても立ち直ることができる。 

そして、この信仰は、主に信頼し続ける、主に自分を任し続けることであり、言うなれば主を愛
しているからそれができるのである。 主の愛を信じ続けることが信仰とも言える。 主を裏切
るようなことをしたペテロだが、彼の心が主に向き、主を求めて、主の愛に立ち返った。 その
ようなペテロだからイエスはとりなしをされた。 しかし、イスカリオテのユダは後悔しても悔い
改めなかった。 イエスは「あなたがたのうちの一人」とだけ言われ、ユダの名を公言しなかっ
た。 ユダが主の愛に立ち返り悔い改めることを待っておられたのではないかと思う。 しかし
彼は主のあわれみを拒み、自殺してしまった。 主は人の心の中をご存知である。 

主を置き去りにして逃げたということで、裏切りは12弟子全員によってあったとも言えるが、イ
スカリオテのユダ以外は後に聖霊によって変えられた。 主の愛と赦しにより立ち直ったペテロ
は他の弟子たちに大きな良き影響を与えたと思われる。 

我々クリスチャンも、キリストのとりなしがあるからこそ信仰を全うできる。 キリストに従い通す
ことができる。 祈ってくださるという背後には「神の愛」がある。 自分たちの過ちや弱さで何
度も失敗してしまうような我々をあきらめず、見捨てていないという主イエス・キリストの思いや
りや忍耐がある。 だから神のもとに立ち返ることができ、信仰を継続し成長していくことがで
きるのである。 

ペテロに語られたと記されていることば「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなた
のために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ
 22:32)」
は主のとりなしを受けて信仰に正しく立っている者たちにも語られている。 神のもと
に立ち返っている我々は、自分のことだけでよしとせず、他の者たちのためにも祈り、陰なが
らでも力づけたいものである。 そのような者が、ますます主のとりなしを受けるであろう。 

★新約聖書   第一テモテの手紙  2:1
       そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い
       地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。


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