めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年8月24日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主に 本当に選ばれた者は実を結ぶ>



★新約聖書   ヨハネによる福音書  15:16
       あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがた
       を任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る
       ためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があな
       たがたにお与えになるためです。

★新約聖書  ガラテヤ人への手紙  5:22,23
       しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このよ
       うなものを禁ずる律法はありません。

●聖書が一貫して語っていることは、ひと言でいうなら人類の救いである。 ”救い”とは、地獄
からの救い、罪からの救い、つまり人が死後、天国へ確実に行くことである。 そして、その方
法はイエス・キリストの十字架である。 

★新約聖書 使途行伝 4:12
    この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御
    名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられて
    いないからです。」

●すべての人は本来、神と交わりを持つ者として創造された。 だから神は人を神のかたちに
かたどって造られた。(創世 1:26) ところが罪によって人は神との交わりができなくなった。(ロ
ーマ5:12,3:26)
 しかし、イエス・キリストが我々の罪の身代わりとして十字架にかかって葬ら
れ、三日目に死の力を打ち破って復活されたことを信じることにより、我々は罪が赦され、救
いを受け、神との関係が修復されるのだ。 

様々な他の宗教は、「・・しなくてはならない、・・してはならない」と人に要求する中で、これほど
大胆でありながら、単純な福音は他に見られない。 それだけに、このキリストによる救いは
神、聖書が語っている深みをともすれば人が、人間の基準に引き下げてしまう危険性があると
も言える。 

実際、現代のキリスト教会の多くが、この救いをもうすでに人間の基準に引き下げてしまって
いる。 カトリックの、地上で完全な悔い改めをできなかった人の救済の道であるとする煉獄思
想、プロテスタントの、この世でキリストの福音を受け入れなかった(拒否した)人にも、死後に
もう一度受け入れる機会が与えられるというセカンドチャンスなどは、主が「下がれ。サタン。あ
なたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マルコ 8:33)
」と怒られているに違いな
い。 

聖書は霊的で、間違いのない神の御言葉であり、その教えには絶対的な権威があるが(Uテ
モテ3:16、Uペテロ1:20,21、ルカ 21:33他)
、その聖書が語っていることは、クリスチャンとは聖
霊を受けている者、キリストとともにいる者、キリストにつながっている者であるということだ。
(Uコリント 4:7、エペソ 1:13,14、2テモテ 1:14、ローマ 6:8) 人の内に聖霊が、神の臨在がなけ
れば、もはやクリスチャンではない。 ただの人である。 このことは旧約聖書でも我々に教え
ている。 

旧約時代、サムエルの時、イスラエルはペリシテ人に神の箱を奪われた。 つまり神の臨在、
栄光がイスラエルを去ったのである。(Tサムエル4:21)  また、神の霊が離れてただの人
になると、悪霊が支配しやすいことも旧約時代のサウル王の箇所で学ぶことができる。「主の
霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。(1サムエル16:14)」
とある。 聖霊
の守りがあるから人は悪霊から守られるのである。 強い聖霊を追い出したり、聖霊を受けて
いなければ強盗(悪霊)に押し入れられてしまうのである。(マルコ 3:27)

聖書には多くの人が登場する。 しかし大きく分けると2種類の人たちである。 主の御心を行
おうとして、大小様々な失敗をしたとしても悔い改めながら、砕かれながら、最後まで主に従い
通した弟子と呼ばれる人たち、またその反対に自分の欲求を求めることを第一優先にして、主
の御心を知ろうとせず、自分たちの期待とは異なるイエスを目にすると去って行った群集。 

神は人の心をご存知である。 だからイエスは言われた。 「あなたがた(弟子)には、天の御
国の奥義を知ることが許されているが、彼ら(群集)には許されていません。 (マタイ 13:11)」
と。 奥義とは原語で”隠れたこと”という意味である。 聖書の中には、隠されていない真理と
隠されている”奥義”と呼ばれる種類の真理がある。 この”奥義”を知っていないとイエスの言
われることばを悟れず、イエスから離れてしまう危険性がある。 

当時、律法学者やパリサイ人は熱心に聖書を読み学んでいたにも関わらず、「キリスト」を見
分けることができず十字架にかけてしまった。 イエスという、まことのぶどうの木から離れてし
まっては実を結ぶどころか枝のように投げ捨てられて、火に投げ込まれ燃やされてしまうので
ある。(ヨハネ福15:6 ) 

イエスというまことのぶどうの木に絶えずつながり、とどまっているならば、多くの実、すなわち
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実を結ぶことができる。 そして、
そのような実を結ぶ者、結んだ者がイエスに選ばれた者であるといえよう。

大事なことはイエスにつながり実を結ぶことである。 そのためには日々、時間をかけて祈り、
祈りつつ神のことばである聖書を読んでいくことが必要である。 そうすることは聖霊が内にと
どまり続けてくださることでもある。 そして、内にとどまっている聖霊が我々を守り、天の御国
へと導いてくださるであろう。

★新約聖書   マタイによる福音書  7:13,14
       狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
       らはいって行く者が多いのです。
       いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

★新約聖書   マタイによる福音書  22:14
       招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」




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