めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年8月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<墓は死後の行くところへの入り口である>



★新約聖書  ヘブル人への手紙 13:14
       私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都
      を求めているのです。

★新約聖書   ローマ人への手紙  6:23
       罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある
      永遠のいのちです。

●もうすぐ日本ではお盆の期間に入るが、本家の方々にとっては親族が帰ってくるというの
で、墓をいつもより念入りに掃除したり、食事や泊まりなどの準備で忙しい期間であると言え
るかもしれない。 日本人は墓や先祖供養などの行事をまめにしている人が多い。 また墓に
こだわり大事にしている人が多い。 

墓といえば、聖書でも墓にこだわっていた人物がいる。 旧約聖書に登場してくるヤコブやそ
の子ヨセフである。 墓にこだわると言っても高級な御影石で作るとかオリジナルデザインの洋
型墓にするとかそんな外見のことではない。 「エジプトから運び出して、アブラハム、イサク、
ヤコブに誓われた地、先祖たちの地に葬ってくれ。」と行き先にこだわったのである。  

彼らは、死後どこへ行くのかというその象徴として墓があると考えていたと思われる。 決して
この世に執着せず、目は死後の世界、永遠に向けられていた。 

信仰の父と言われるアブラハムも同様である。 この地上では「約束のものを手に入れること
はありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であること
を告白していた。(ヘブル 11:13)」
 彼らの生きる目標、またこの地上で生きる上での本当の
目的地は、後の世界と心が定まっていた。 

だから彼らにとって墓は、一つの区切りであり、死後の行くところへの入り口であった。 死後
、どのようなところへ行くか、そのことに彼らはこだわったのである。 墓石がどうのこうの、形
がどうのなど関係ないのである。 「エジプトから運び出して」とあるように、彼らは、この世から
実際出たのだが、この地上でも旅人として過ごした。 

さて、日本でお盆といっても案外、その意味など知らずに執り行っている人が多いと思われる。 
若い人はなお更だが、年配の方々でも漠然とした意味合いだけで、昔からそのようにしている
からだとか、理由もわからず、こうするものと決め付けている場合が多いように思われる。 仏
教やお盆に関してネットで調べたことを簡単に列挙してみる。(牧師 田中啓介HP、牧師:千田
俊昭HPなど参照)

仏教を開いた釈迦を仏陀(悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す)という場合が多いよ
うだが、仏陀(釈迦)は生存中、経典教義といったものを何ひとつ残していない。 彼の思想
は、本来、人生における実践哲学である。 仏陀と同じように修行をしないことには、悟りが開
けないのが仏教である。 

来世については何も触れておらず、現在日本の仏教の根底思想にある輪廻転生や、極楽浄
土といった思想は、本来仏陀の教えとは全く関係がない。 仏陀(釈迦)の死後、約500年を経
て宗教改革が起こった。 しかし仏陀の正統的継承者と呼べる指導者と、教えの基礎となる経
典なるものが存在しなかったため、リーダー達の考え方や都合で様々な分派に分れ、その土
地の民族宗教や、生活習慣にうまく順応した仏教は、形を変え幅広い地域に浸透していった。

弁天、毘沙門天、大黒天などの七福神や帝釈天。 これらはほとんどヒンズー教の神々であ
る。 また、仏壇や位牌も、実は仏教から発生したものではない。 これは、先祖供養を尊ぶ儒
教から来たもので、また位牌も儒教の教えを習得した際に授与された白木の証書がその原型
である。 おそらくその証書と、人の魂が木に宿るというヒンズー教とが結びついたと思われる。

ところが、この位牌が日本においては非常に大きな意味を持つ。 位牌に書かれた戒名のレ
ベルによって、あの世への行き先が左右されるからである。 従って、日本は成仏するにかな
りの予算が必要となる。 意味はよく分らないが、"信士"なら15〜30万円で、"院殿大居士"と
なると何と数百万〜!!  これはルターの宗教改革以前のヨーロッパで、教会がとんでもないお
金で庶民に売りつけていた免罪符と同じである。 これらこそバチ当たりである。

その位牌は丁重に仏壇に置かれる。 そして拝む対象となる。 なぜ仏壇を拝むのか? それ
は、先祖の霊が仏壇にある位牌に宿っているからだという。 葬式でお坊さんが、身体から離
脱した魂を、ありがた〜い戒名(浄土真宗では法名)が書かれた位牌に移すためだという。 し
かし、仏教の教えによると、死んでから49日以内に人の魂は、六道輪廻(天国から地獄迄の6
段階)の何れかに行くわけだから、少なくとも50日目以降、位牌は意味を失うことになる。  

また、盆になると、「地獄の釜の蓋が開いて、先祖が帰ってくる」と言われる。 これは地獄を恐
ろしい所と考えずに、あの世から先祖が久し振りに帰省するという懐かしさとねぎらいの意味で
用いられる。 実はこの言葉は仏教信仰に反する。人が亡くなって四十九日の間に、六道輪
廻の中のどれかに行き先が決まり、一度決まったら無限に近いほどの長い時間そこに留まる
ので、お盆に帰省することはない。 古来日本の民俗宗教では、来世や他界とこの世は往来
可能でそこから日本古来民俗宗教と仏教の合作・融合の言葉が生まれた。 真実など微塵も
ない。 もはや空想の世界である。

滝本明牧師が次のようなエピソードを語っていたという。 “一人のおばあさんが「先祖にたた
られて…」と話しているのを聞きましたので、私は次のような質問をしました。「おばあさん、あ
なたもいつかは死んでしまうのですが、もしあなたの子供がおばあさんをよく拝んでくれなかっ
たら子供にたたって出たいと思いますか」。すると、「とんでもない。誰が子供にたたって出たい
と思いますか」「では、孫ならどうですか」「孫の方がもっとかわいいですよ」と言われました。”
 
年忌をしないから先祖のたたりがある”などということは決してない。 必要なことは、人々が救
われて永遠の命を受けることなのである。 聖書では人は死後、天の御国か”ゲヘナ”と呼ば
れる炎の中で苦しみもだえる苦しみの場所(ルカ16:23-28)かいずれかへ行くと書かれている。 

”墓にこだわる”と言っても仏教とキリスト教ではこのような大きな違いがある。 聖書は我々人
が、この地上だけで終わりではないことをはっきりと書いている。 聖書の視点は死後、永遠で
ある。 聖書によるならば、この地上生活よりもむしろ死後、後の世でどうであるか、どこへ
行っているかが重要であると語っている。 この地上生活は、後の世へ行くための備えの時で
ある。 

イエス・キリストを信じた真のクリスチャンであるならば、亡くなったとき自分はどこへ行くの
か! ここにこだわるべきである。 また未信者の方々もお盆の時に空想話や作り話ではなく
”真実”に目を向けて、真剣に自分の死後への行き先を考えてみる機会にしてほしいものであ
る。

★新約聖書   第一ヨハネの手紙  5:20
       しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っ
      ています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいる
       のです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

★新約聖書  ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている


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