めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年8月3日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<放蕩息子(ほうとうむすこ)>


★新約聖書   マタイによる福音書  マタイ 7:21
       わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天にお
       られるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

★新約聖書   ローマ人への手紙  12:3 
       私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
      うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与え
       てくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

ルカ15章の放蕩(ほうとう)息子のたとえには、あらゆる面からの神の教えがあると思われ
る。 その中の一面ではあるが、このたとえに登場してくる父と兄と弟で、父は父なる神、兄は
クリスチャン、弟は未信者として読み取るとき、クリスチャンである我々が、クリスチャンである
ことにあぐらをかかず、しっかり目を覚ましておく必要があること教えられる。

放蕩息子のあらましはこうである。 ある人に二人の息子がいた。 弟は父に生前分与をもら
い、それを持って遠い国へ行き、遊蕩三昧の生活をして、財産を浪費した。 すべてを失った
時、飢饉が襲い、弟はけがれた動物とされていた豚の世話をし、その餌で飢えをしのぎたいと
思うまでに落ちぶれてしまった。 その時、我に返って、悔い改め「雇い人となって働こう。」と
家路に着いた。 息子の姿を遠めに見た父は走り寄って息子を抱きしめ、わびを言う息子に
最上の着物を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ、祝宴を行った。

畑から帰ってきた兄は、家に近づくと祝宴の音が聞こえたので、しもべに聞くと「・なたの弟が
帰ってきたので、お父様が肥えた子牛をほふって祝っているのです。」という答えが返ってき
た。 兄は怒って家に入らなかったので、父がなだめに来たが、兄は父に「私は長年あなたに
仕え、一度も背いたことがないのに、友達と楽しむために子山羊一匹もくれませんでした。だ
のに、遊女と一緒になって身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、肥えた子牛を
ほふりなさいました。」と文句を言った。 父は「子よ、お前はいつも私と一緒にいるし、私のも
のは全部お前のものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見
つかったのだ。祝宴を開いて祝うのは当たり前ではないか」というたとえである。

本来、クリスチャンも未信者も、つまり人はもともとは神のものであった。 神は「人をご自身の
かたちに創造された。(創世 1:27 )」
 その時、人は神のもの、神の支配下にいる者であった。 
親は子を愛するとき、親は子が言うとおりに従えば、幸せになると思っても、子の自由意志や
心を無視して子を縛りつけて親に従わすことは本当の愛ではないと知っている。 親は子が
自分の自由意志を用いて、心から親の言うことを聞き従い行うことを望むであろう。 とは言っ
ても昨今はこのようなことは通用しない時代になったかもしれないが。

ともかくも父なる神も我々人に対して、同様である。 人が自分の心でもって神を愛し従うことを
望まれた。 だから人に自由意志を与えられた。 人を愛するがゆえに自由意志を与えられた
のである。 人は本来、神の支配の下に平安を得ることを知っていた。 しかし、へびの誘惑が
きたとき、人は試された。 そして見事にまんまとひっかかってしまった。 アダムとエバは「善
悪の知識の木からは取って食べてはならない。必ず死ぬから。(創世 2:17)」
という神のことば
よりも、「食べてもあなたがたは決して死なない。(創世 3:3,4,5)」という蛇のことばを選んだ。 

「神のように賢くなる」 ということばに惹かれたのである。 このとき罪が人類に入ってきた。 
罪とは、「的はずれ」という意味合いがあり、神への反逆、サタンの性質、律法に逆らうこ
と・・・。 だから、もはや神の支配の下のエデンの園では、アダムとエバは住めなくなり、追い
出されることとなった。 永遠の命の木から遠ざけられることとなった。 その後の人類もみな
罪人である。 「そんな無茶なこと。 アダムとエバが悪いのに、どうして私までが神からの恵み
を受けれないというとばっちりを受けなければならないのか。」などと言っても仕方がないことで
ある。 聖書はアダム以来「(ローマ 3:23 )すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受
けることができ」
ないと語っているし、そのように言うこと自体、罪人の姿であろう。 

この箇所では、兄(クリスチャン)は父(神)のところに居つづけた。 クリスチャンというのは、
いつも神と共に、キリストと共におるべき者である。しかし、弟(未信者)は父(神)から離れて、
この世で過ごしている。 父なる神とは関係のない生き方をしている。 この世は神の国からは
遠い。 しかし、この世の中に神の国、教会がある。 それでも実際、心は遠い遠い所にある。 

この世で生活していくとき、本当の意味で心の底から満たすものなどない。 すべては豚が食
べるいなご豆にすぎないと聖書には書いている。 大金持ちになった。 しかし、ある日突然死
んでしまった。 有名人になって皆からちやほやされた。 しかしピークが過ぎれば忘れられて
いく。 この世に名を残して銅像としても残った。 教科書にも載った。 しかし、当の本人は地
獄で苦しんでいるということなど大いにあり得る。 何とむなしいことか。 

旧約聖書伝道者の書でも「私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべ
てがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(伝道1:14)」「金銭を愛する者は金銭に満足しな
い。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。(伝道5:10)」
とある。 人には寿
命があり、そのとき「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分
の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。(伝道5:15)」
とある。 

ただ、聖書によるならば未信者がいつまでも こんな愚かなことを繰り返しているわけではない
ようだ。 ある時、この世のものでは腹を満たすことができない、心の飢えを満たすことができ
ない、そのような心底からの満たしを与えてくれる人はいないと気づくというのだ。 聖書は過
去、現代、未来のどの時代の人が読んでも、その時々、その人に応じての教えや悟がある
が、どちらかといえば聖書は終末に生きる我々に対して多く語られていると思われる。 焦点
が終末に合っている。 

ここのたとえでは今後、未信者の人が悔い改めて方向転換をし、神の方へ一歩踏み出す人が
多く出てくるということを示唆している。 また、そういう悔い改めてへりくだった者の方へ神の
方が走り寄ってくださる。 そして最上の衣、つまり義の衣を着せてくださり、指輪で象徴される
ように神とのすばらしい契約に入ることを許される。(Uコリント 3:6、ローマ11:27)  そして、く
つをはかせてもらうという、いわばクリスチャンとしての良い行ないに歩ませてくださる。 エペ
ソ2:10
のみことばどおりである。 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリ
スト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行な
いをもあらかじめ備えてくださったのです。 」

また「自分の罪過と罪との中に死んでいた者(エペソ 2:1)」が、キリストのほふられた血により、
贖われたことをよろこび祝宴が始められた。 このたとえの祝宴は一度目はペンテコステの時
代に成就した。 このとき、聖霊が大いに注がれ多くの人が救われた。 一般的にリバイバル
と言われていることである。 聖書が終末に焦点を定めていることから見ると、このことは終末
に再現されると思われる。 とするならば、終末の祝宴、リバイバルの時に、それまで父と一緒
にいた兄、クリスチャンの多くはこの家(教会)には入って来ないようである。 せっかくの祝宴
も父なる神と共に喜べなくなる可能性があるようだ。 それまで一生懸命、父なる神の言いつ
けを守って仕えてきたにも関わらず、ねたみに燃えてしまうために真の教会に入れないおそれ
があるのだ。 

父なる神がクリスチャンを無視して祝宴を始められたのではない。 イエスがこのたとえを話さ
れた前の章、ルカ14章から見るならば、クリスチャンを招いても、彼らが祝宴に来なかったと記
されている。 14章にも盛大な宴会の誘いに対して畑を買ったから、つまり伝道があるからと
か、5くびきの牛を買った、つまりクリスチャンになった人をケアしに行くからとか、結婚したか
ら、つまり救いに関する働きがあるからとか、そういう理由でキリストの宴会出席を断ってい
る。 父が兄を説得したが、たとえにはその答えは書かれていないが、結果は兄、クリスチャン
は、父、父なる神の説得を受け入れなかったようである。 

本来、すべての人はアダムとエバ以来、神から離れた放蕩息子であった。 しかし、兄、クリス
チャンは、十字架の血のあがないを信じて父の元にいた。 しかし、最後になって父の言われ
ることばを受け入れないということは、また心が放蕩息子に戻ったということであろう。 財産を
使い果たして戻って来た弟を受け入れることができないばかりか、むしろ見下し、さげすみ、軽
蔑している。 心が父から離れれば、いずれ体も離れていく。 つまり永遠の命を失うおそれが
あるということだ。 このことを我々、クリスチャンは厳粛に受け取るべきである。 

もちろん、すべてのクリスチャンが兄ではないが、クリスチャンである者は、目を覚ましておく必
要があろう。 未信者は、リバイバルの時まで待とう、などと悠長なことを言わず、「(ヘブル 4:
7)きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」のだ。   

れは「かたくなさと悔い改めのない心は、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる
日の御怒りを自分のために積み上げている(ローマ 2:5)」
と言われるからである。 

忍耐をもって約束のもの(永遠の命)を得るために神のみこころを行なっていきたいものであ
る。(ヘブル10:36) そのために堅く信仰に立ち、絶えず目を覚まして祈っていきたいものであ
る。

★新約聖書   ローマ人への手紙  9:27
       また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもた
       ちの数は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

★新約聖書   ローマ人への手紙  11:5
       それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。


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