めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年7月13日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神の愛と神への愛>


★新約聖書   第一ヨハネの手紙  4:19
       私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

★新約聖書   ローマ人への手紙  5:6~8
       私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくだ
       さいました。  正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のために
       は、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。   しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリ
       ストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明
       らかにしておられます。

●キリストが十字架上で我々人を救うために死なれたことは、まさしく犠牲の愛であり、いわば
キリスト教の根本ともいえよう。 聖書では神の愛を「アガペー」と言っているが、アガペーとは
「無償の愛」「自己犠牲の愛」「自分の愛を与える、自分を注ぎ出す愛」である。 相手に何か
の利益も見返りも求めない一方的な愛である。 

その「神の愛」を、まず神の方から我々すべての人に与えてくださった。 神がひとり子イエス
をこの地上に遣わしてくださったときから、すでに神は我々人を愛してくださっていることを示し
ておられる。(ヨハネ福3:16) 

本来、すべての人は罪人である。 人はこの地上生活が終われば、死を迎える。 そして死
後、行き先は少なくとも天国か地獄かいずれかであると聖書には記されているようである。(ル
カ16章金持ちとラザロのところ)
 「罪から来る報酬は死である(ローマ 6:23 )」と記されている
が、人は罪人として生まれ、罪を処分せずにそのまま罪人として死んでいくとき、死ぬ(滅び
る)、つまり地獄行きとなる。 

しかし神が我々人をあわれんで「神の愛」を、まず神の方からすべての人に与えてくださった。 
人はこの身代りの死があるからこそ死後、地獄への道を回避できるようになった。

ただ、一方的なこの犠牲の愛は神から人への最高の賜物ではあるが、受け取るかどうかは一
人ひとりの意思決定に任されている。 神は人を自分の意志を働かすことのできないロボットと
して造られたわけではない。  

人はこの「神の愛」を受け入れ、主イエス・キリストを信じてクリスチャンになる。 クリスチャン
とは、原語ではクリスティアーノス「キリストに従う者」という意味があり、その意味のとおりであ
る。 従うというとき、嫌々ではなくキリストを愛して心から従うということである。 クリスチャン
になった人は、日々主に頼るようになり、生活の様々な面においてますます「神の愛」を体験す
ることとなろう。

キリストは「神の愛」を受けてクリスチャンになった者たちとこの地上を共に歩んでくださる。 そ
のとき神は「愛の神」ゆえに我々の祈り(願い)を聞いてくださる。 しかし神の方が我々に望ま
れておられることがある。 それは我々の方が神を愛すること、すなわち「神への愛」である。 
一般的にも愛されることばかりを求めて生きる人は本当のしあわせや喜びを経験できない、愛
することを求めて生きる人こそ幸福を味わうことができるといわれている。 

クリスチャンとして生きていく上で大切なことは、やはり愛していくということである。 それもま
ず神を愛すること(神への愛)、次に隣人を愛することである。 神の律法の中でどれが一番大
切かということをイエスに尋ねた律法学者に主は答えられた。 「一番たいせつなのはこれで
す。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、
知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人
をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ
12:29~31) 

「神を愛する」とは、神のため、どれだけ自分をささげるかという、神が一番!自分より主が優
先!ということである。 ただ、神を愛することは重要であるが、本当に心から神を愛すること
ができるためには、神から愛されているのがわかるということが大切である。 つまり「神の愛」
に触れることである。 

愛されていると実感している者、その愛の中に留まっている者こそが本当に愛することができ
るものである。 愛していくためには、土台に愛されているという実感、実際が必要であると
言えよう。 我々は神の方がまず我々を愛してくださったという事実があるので、神を愛する
ことができるのである。 神を愛すると口先だけでなく、実際、神を愛しているということが行
いや雰囲気や言葉などで表われるために「神の愛」に触れていくことが大切である。 「神
の愛」に触れた人は神を愛さずにはおれなくなる。 

神から愛されている実感、実際を体験するためには日々、主に祈ることによって主との交わり
を持つことである。 神を愛し、神の愛の中に留まっているならば、我々は主が言われるように
隣人をも愛することができるようになるであろう。 そして 我々から神への最大の愛、キリスト
のためにいのちを捨てることができるまでになるであろう。 

主を三度裏切ったペテロは回復した。 神を愛していたからである。 その後、失敗を重ね
ながらもその度、主から愛されていることを実感し、同時に主への愛も大きくなっていった。 
このペテロは最後は逆さ十字架で殉教したと言われている。 イエスと同じように頭を天に向
けることは、恐れ多いことだという意志の現れであったとも言われている。 主が言われた「
がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハ
ネ福15:13))」、このみことばどおりの神への最大の愛を得て実践することができるまでに
なった。 

祈って祈って聖書を読んで神から愛されていることを知り、そうして神の愛に触れ、祈って祈っ
て神のみことばを行うことによって神を愛する、そうして神の喜ばれる者になっていきたいもの
である。 主は、我々の心を見られている。 今はまだ神への愛は小さいかもしれないが、
日々祈りと聖書を読むために時間をかけて神の愛に触れながら、神への愛を大きくしていた
だき、神を愛していきたいものである。 
 
★新約聖書   ヨハネによる福音書  15:13
     人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

★新約聖書  第一コリント人への手紙  13:13、14:1
       こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれている
       のは愛です。  愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求め
       なさい


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