めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年6月8日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<人は神の口から出る一つ一つの言で生きる>


★新約聖書(口語訳)      マタイによる福音書  4:4
       イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一
      つの言で生きるものである』と書いてある」。

★新約聖書    ルカによる福音書  1:45
       主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

●我々人の体は食物を食べて成長していき、また維持していくことができる。 食物を食べて
いくことによって生きることができる。 それと同じようにクリスチャンは霊の食物を食べ信仰も
霊も成長していき、また維持していくことができる。 霊の食物を食べていくことによって、”生き
る”ことができる。 この霊の食物は、”神のことば”である。 聖書は”神のことば”である。 

聖書のことばといっても、聖書は新約、旧約、両方合わせて66巻あり1500ページ以上にも及び
、読むのは大変かもしれないがそれでも、聖書のことばは、神のことばゆえ、クリスチャンに
とってはなくてはならない食物である。 毎日、読んでいくことはクリスチャンにとっては必要な
ことである。 イエスは「人はパンだけで生きるもの」、つまり「パンで生きるもの」と言われた。 
<人=クリスチャン、パン=聖書のみことばのたとえと思われる。> 

生きるという限り、みことばが日々のクリスチャンの生活の中で実際とならなければ、机の上
の学問だけで終わってしまう。 聖書というのは、単なるいい教えの書ではない。 また、聖書
のことばは自分の力で行えるものでもない。 祈りなくして聖書のことば、神のことばを行うこと
はできない。 神の霊感によって書かれたものだから、頭で理解できるものでもない。(Uテ
モテ3:16) 
聖霊によって悟らせていただくものである。 だから祈りつつ読むのである。

さて、イエスは、クリスチャンは聖書のことばだけで生きるものではなく、「神の口から出る一つ
一つの言で生きるものである
」と言われた。 旧約聖書申命記8章3節には「主の口から出
るすべてのことば」
と書いてある。 旧約時代、イスラエル人たちが出エジプトしたときに、荒野
で直接天から下ってきた特別なパン、マナを与えられたが、「主の口から出る一つ一つの言」と
は、まさしく、そのマナ、すなわち神の口から直接語られることばのことである。 

聖書の中の登場人物の多くの人々は主からの直接のことばをいただいている。 例えば、アブ
ラハムに主は「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。(ローマ 9:9 ,創
世 18:10)」
と語られ、そのとおりになった。 イサクの妻リベカには「兄は弟に仕える。(ローマ
 9:12,創世 25:23)」
と語られ、そのことばどおり兄のエサウではなく弟のヤコブが父の祝福を受
け継ぎ、おことばどおりになった。 老人のシメオンはキリストを見るまでは、決して死なないと
語られていて、実際、幼な子キリストを見ることができた。 主の口から出ることばを語られた
人々は、信仰をもって受け入れている。 そして、そのとおりになっている。

また、ペテロは主イエスから直接「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのた
めに祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ 22:3
2)」
と語っていただいた。 だから、三度、主を知らないと裏切ってしまっても、おことばどおり
立ち直り、その後、主のために良い働きすることができた。 

パウロには「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に
示すつもりです。(使徒 9:16 )」
とキリストの弟子アナニヤにではあるが、語られた。 すぐその
後、クリスチャンを迫害していたパウロは、劇的な救われ方をして、見事に主のために働く弟
子となった。 神の霊感によって書かれたパウロの手紙は新約聖書の多くを占めている。 し
かし、パウロに対する迫害は尋常なものではなかった。 主の語られたことばどおりであった。 

いずれにしても、神は語ってくださる。 それは約束の言葉だったり、命令的なもの、契約的な
ものだったり、予言的なものだったりと様々である。 命令的なものなどは語られた者の応答
如何による場合はあるが、いずれにしても神の語られたことばはそのとおりになる。 我々人
は、一人一人、生活環境、性質、状況、個性・・・それぞれにみな違いがある。 何もかも一緒
くたにはいかない。 

主は一人ひとりのことを、人の心の中のことをもよくご存知である。(使徒 15:8) 我々の頭の
毛の数さえご存知なのだ。(マタイ10:30)  その主が、一人ひとりの状況に応じて必要なこと
ばを語ってくださる。 神の方では、求めて来る者に与えようとことばを用意してくださっている
のである。 

神の口からその都度、その都度出る一つ一つのことばは、信仰をもって受け入れるときそのと
おりになる。 神のことばは語られたらそのとおりになる。 神が定められたときにそのとおりに
なる。 そして、そのことばが実現するということは、信仰や霊が成長するだけでなく、ますま
す、キリストの命による生き方、真の生き方ができるということである。 その聖霊の導きに頼
り切った生き方こそが、主が言われる”生きる”ということである。

今週も絶えず、主に頼って聖書を読み、主に語っていただけるように求めていき、聖霊に導か
れて時間をかけて祈っていきたいものである。 そして聖霊に触れられ清めていただきたい
ものである。

★旧約聖書  箴言 25:11
       時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。

★新約聖書(口語訳)    ヨハネによる福音書  6:63
       人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたし(=イエス・キリストの
       こと)があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である


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