めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年5月18日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<心の奥底にある石膏のつぼを割っているか>


★新約聖書 (口語訳)   マタイによる福音書  16:24
      それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自
       分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。   

★新約聖書   ヨハネによる福音書  12:24
       まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、
       それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

マルコによる福音書14章(マタイ26章、ヨハネ福12章)にイエスがベタニヤという所で、らい
病人シモンの家で食卓についておられたときのことが記されている。 ひとりの女が、純粋で、
非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注
いだ。 すると芳しい香油のかおりが家に漂った。 当時、尊い客が家に到着した時や食事の
席についた時には数滴の香油をかける習慣があったが、この女は売れば300デナリ以上する
ほどの高価な香油を、少しも惜しむことなくすべてイエスに注いだ。  ちなみに300デナリは当
時の労働者の一年分の賃金に相当するものだった。

これを見た何人かの者が憤慨して互いに言った。 「何のために、香油をこんなにむだにした
のか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人達に施しができたのに。」
と。 そうし
て、その女をきびしく責めた。  それに対してイエスは「そのままにしておきなさい。」と言わ
れ、この女の行いが善いことだというわけを説明し、そして最後に「まことに、あなたがたに告
げます。世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この
人の記念となるでしょう。(マルコ14:9)」
の言葉で締めくくられた。

この箇所でいわんとしていることは、ひと言でいえば「我々はつぼを割る気があるのかどう
か!」つまり、「自分自身を主にゆだねる、自分の殻を破る、自我が砕かれる、その気がある
のかどうか!」ということであろう。 つぼ=器=その人自身が割られて、中の高価なナルド油
の香りが一面漂う、つまりすばらしい聖霊の働きをみることができる、ということであろう。

300デナリの高価な香油は、この女にとっての全財産だったかもしれない。 それは、この
女のイエスに対する献身と犠牲、つまり自分自身を主に捧げていることをあらわしている。 
”自分自身を主に捧げている”という言葉はクリスチャンの間でもよく聞かれることばである。 
しかし、この女は口先だけの言葉だけでなく、つぼを自ら割った。 つまり自分自身と自分のわ
ざも捨て、全き主に信頼しイエスに心底、感謝した。 イエスがいのちの主であることを、はっき
り捉え主に従うことを態度で示したといえよう。 

憤慨して「何のために、こんな・・・」と自分の思い、考え、感想を主張しあっていた弟子たち(マ
タイ26章より)
は、この時点では彼ら一人ひとりにとっての石膏のつぼは割られていなかったよ
うだ。 このときの弟子たちは、自分のつぼはまだ割られていなかったことに気づいていなかっ
たように思われる。 しかし、イスカリオテのユダ以外は、その後、様々な体験や訓練を通し、
見事につぼが割られた。 そして最後まで自分を捨て、自分の十字架を負い、主のみこころに
従い、主に仕える道を歩んでいくこととなった。 

さて、イエスはベタニヤのらい病人シモンの家におられた、ということも我々に語りかけがある
ように思われる。 ベタニヤは”みじめな家”という意味合いがある。 ”らい病”は聖書では罪
について教えている。 イエスは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔
い改めさせるために来たのです。(ルカ 5:32 )」
と言われたとおり、よく罪人たちといっしょに
食事をなさった。 確かに、このときも主はみじめな罪人のところに入って来てくださり、食卓に
ついてくださった。 しかし、そこでこのとき主にほめられたのはこの女だけだった。 ”みじめな
罪人”と本当の意味でへりくだっていたのは、この女だけだったのかもしれない。

イエスを受け入れるということで、一旦、クリスチャンになり主に従っている者であっても、その
人の内に石膏のつぼを割らずに持っていたのでは、高価な聖霊の働きをみることができなくな
る。 石膏のつぼは、結構頑丈である。 堅い。 そして、心の奥底に秘めているもので、なか
なか本人が気づきにくいかもしれない。 そして、ともすれば、へりくだることを妨げるものとなり
得るかもしれない。 しかし、割る気がある者、つまり本当に、自分自身を主にゆだねきって
主に従おうとする者には、神が教えてくださり、割られる方向へと導いてくださる。 

案外、多くの人が自分のつぼがまだ壊れていないことに気づいていないのかもしれない。 だ
から、道が逸れていくのかもしれない。 つぼが壊されていないと、働きをするとき、主の思い、
考えを優先せず、貧しい人々、つまり聖霊をまだ受けていない”人”のことを優先する可能性
がある。 現代、盛んな聖霊の第3の波系、ペンテコステ、カリスマ運動などは、貧しい人たち
のための働きなどということを聞いたことがある。 全く聖書の示す道とは違うムーブメントで
ある。 

主は、我々クリスチャンを通して「高価なナルド油」の香りを漂わせたいと願っておられる。 主
は、一人ひとりを喜んで主に仕えさせたいと願っておられる。 だから我々クリスチャンは自己
実現をしようとすること、自分を貫くことなど、”自分自身”というつぼを温存しないで、主イエス・
キリストのみこころを優先していきたいものである。 

300デナリを貯めるのには時間も手間もかかったことであろう。 同じように我々も聖霊の働き
を求めるのには祈りの時間を多く持ち、日々続けるという手間隙がかかる。 主に真に従って
いきたい、仕えていきたいと願い祈りに時間をかけている者に、主は必ず「高価なナルド油」
の香りを漂わせてくださるであろう。 もし、それを妨げる石膏のつぼが残っているならば、そ
れを教えてくださる。 主によって教えられた者は、この女のように自ら石膏のつぼを割り、「高
価なナルド油」の香りを主に注ぎ、芳しい香りを主の御前に漂わせることとなる。 

今週も大いに時間をかけて、祈っていきたいものである。

★新約聖書(口語訳)  ヘブル人への手紙  12:28
       このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではない
       か。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。

★新約聖書  エペソ人への手紙  5:8 ^10
       あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもら
       しく歩みなさい。      ・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・
       そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。



        

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