めんどり聖書研究会


  めんどり通信 / 2008年3月9日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!




新約聖書   マタイによる福音書 マタイ 7:13,14
      狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
        らはいって行く者が多いのです。
        いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

★新約聖書  使途行伝  4:12
        この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私
        たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

●聖書のことばは、神の救い、『イエス・キリスト』について書かれている。 イエス・キリストこそ
が唯一、人に与えられた救いの方法、道であると聖書は語っている。 イエスご自身も「わたし
が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに
来ることはありません。(ヨハネ福 14:6)」
と言われている。

”救い” について、様々な”救い” があれど人に与えられた最大の救い、失くしてはならない
”救い” は「神のさばきからの救い」「地獄からの救い」である。 この世に生を受けて80年な
り90,100年なり生きてきた貴重な霊魂が、肉体の役目が終わったからと言ってどうして滅んで
よかろうか。 神は、我々人を滅ぶ者として造られたのではない。 この地上を永遠への備え
の時として、その人の自由意志をもって、神に従い、身体の寿命が尽きたときからは、与えら
れた永遠の命で天の御国で、神と共に永遠に生きることを望まれている。

しかし、上記のみことばによると、(永遠の)いのちに至る道は小さく、狭いという。 この”狭い”
ということばの原語には”苦難が多い、まっすぐ”という意味合いがあるという。 そうなると、永
遠のいのちに至るには、困難、苦難がともなうがまっすぐな道を歩む必要があると言える。 
『イエス・キリスト』を信じていれば、キリストが共に歩んでくださるのでゴールに行き着くことがで
きる。

言葉からみる限り、それは簡単なことである。 しかし「イエス・キリストを信じている」という者の
多くが、実質は他のものに頼っているということが多いと見受けられる。 『イエス・キリスト』を
信じるということは「イエス・キリストに従うことであり、絶えず頼る」ということである。 従うため
には、神のみこころを知るために聖書を読む必要があり、絶えず頼るためには、絶えず祈る必
要がある。 

★旧約聖書  申命記 8:5
    あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
    知らなければならない。

★旧約聖書  イザヤ書 63:9
        彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわ
        れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

●旧約聖書に出てくるアサフという人は歴代誌の時代にエルサレム神殿で聖歌隊のリーダー
だった。 詩篇73篇にそのアサフの心情、告白が書かれている。 彼は神を恐れない世の中の
人が 苦痛もなく栄えている、楽しそうに生きているのに、明らかに神を恐れる者が試練にあっ
たりするということを経験によって見ている。 

アサフは、神を求めて聖所に入って、神の御前に出た。 そして、目が開かれて悟った。 彼が
見たのは、人の行く末だった。 死後、人の行く先。 それは神の裁きの前に立つことである。 
どんなにこの地上で栄えようと、皆にうらやましがられるほど満ち足りようと、神の裁きの前に
立ちおおせるものはいない。(詩篇 1:5 ) 「キリストの血によって義と認められた者たちが、彼
によって神の怒りから救われる」
のである。(ローマ 5:9) 

地上で一生安泰に暮らせたとしても、人生荒波なく穏やかに生きられたとしても、寿命が尽きた
とき、神のさばきを受けて天の御国へ入れなければ、それこそ「私の人生何だったのか」と落
胆しなければならない。 一時の落胆ですめばよいのだが、その落胆は半端でない苦しみの場
所であるようだ。(ルカ 16:23,28) また聖書によるとそれは永遠に続くという。 

そのことを知ったアサフは自分自身の愚かさを知った。 そして、訓練、試練の中にあるとき
も、神は沈黙していたのではなく、ただひたすら「あなたは私の右の手をしっかりつかまえ(詩篇
 73:23)」
ていたということを知った。 我々ががんばって神の手をつかまえているのではなく、神
の方が我々の手をしっかりつかまえて下さっているのである。(イザヤ書 40:11)
 
訓練、試練の最中で何もわからなくなっていたとしてもキリストが共にいてくださり、苦しんでい
る者を抱いて下さっているのである。 そして諭(さと)して導いていて下さるのである。 アサフ
が力強いみ手の確かさを知ったように、苦しんでいる者も主に求めている者は必ず、自分の手
を以前からつかんでいた力強いみ手の確かさを知ることができるであろう。

神の取り扱いは単純に解釈できるようなものではない。 試練が立て続けにあったダビデの人
生、アブラハムの人生もそうであった。 ヤコブもモーセもずっと試練の連続であった。 多くの
聖書の登場人物、神に従った者たちは、みな大変な試練にあった。 しかし、その試練によっ
て残る実を結び、成長していった。 

試練がない安泰しているような者たちは、表面的な豊かな祝福の中で、結局は神に背いた生
き方により、神は彼らを滅びに突き落とされた。 アサフはその事を悟った時に、自分に与えら
れている試練は自分にとっては益になるものだということをも悟った。 そして、その試練に耐え
ることができると思った。 実際耐えた。 神の愛は、試練においても祝福においても表される。 
主は我々を確実に狭い道を通って永遠のいのちに入らせたいと望んで下さっている。
日々、聖霊の導きによって祈り、主に頼って聖書を読んでいきたいものである。

★新約聖書  第一コリント人への手紙    10:13
        あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方
        ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいま
        せん。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。



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