めんどり聖書研究会


  めんどり通信 / 2008年2月17日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書   マタイによる福音書 11:28 ,29
       すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたが
       たを休ませてあげます。  わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしの
       くびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

★新約聖書   ヨハネによる福音書    7:38
   わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底か
   ら、生ける水の川が流れ出るようになる。」

●「宗教」というとき、今日の多くの人のイメージは決して良いものではない。 2005年頃だった
かNHKの世論調査で、無宗教者であるとの回答をした人が75%とあった。 この数字から見る
と やはり日本人は、一般的に無神論者、宗教に無関心であると言えるのかもしれない。 

しかし、別の調査では、日本人の72%は宗教が有ったほうがよいと答えているという。 確かに
初詣やお盆やお彼岸の墓参りなどの宗教的な年中行事へは参加している人たちが多い。 ま
た、御守りや御札、おみくじや占いをある程度信頼している点など見れば、必ずしも宗教に無
関心であるとはいえないようだ。 また生活に密着していて宗教というよりマナー・常識になって
いるようにも思える。 他の仏教国では、僧侶 は葬礼に直接関与しないが、日本の場合は葬
式仏教と呼ばれるなど、宗教=慣習となっているとも言える。

だからか、改めて「宗教」という言葉を聞くと嫌悪感を感じる人が多いように思われる。 オウム
真理教のサリン事件やイスラム原理主義者がテロと関係しているような繰り返し々の報道など
により「宗教」が悪い意味でクローズアップされていることも後押ししているかもしれない。 また
新興宗教の金儲け手段や己の欲求を満たす手段にするという心情的に受け入れられないこと
も原因のひとつかもしれない。

本来宗教とは何なのか。 「宗教」ということばを辞典で調べてみると『神仏などを信じて安らぎ
を得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え:大辞林より』『神仏などの超自然的、超人間
的なものを信仰、畏怖、尊崇することによって心のやすらぎを得ようとすること:学研 現代国語
辞典より』とある。 

「神仏などを信じて心のやすらぎを得る」ことが「宗教」であるとの定義から、日本人も様々な局
面で臨機応変という具合に宗教者になっていると思われる。 入試、就職試験など様々な重大
な事態や困ったときなどの「神頼み」、神社への参拝の時の願い事、1日の始まりでのテレビ占
いのことばの期待、・・・など等。 しかし、「鹿を追う者は山を見ず」ということわざがあるが、今の
日本人は目前の利益を得ることだけに集中して、ほかの事柄に気づかず、人間にとってまた
人間として真に大切な正しい道に対して顧みる余裕が無くなっているように思われる。 

★新約聖書   ヨハネによる福音書  14:27
       わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが
      与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけ
      るな。

●「心のやすらぎを得る」ことは人にとって必要なことである。 子どもを育てるにしても様々な
対人関係においても心に平安があれば、接し方が違ってくるであろう。 そういう意味合いにお
いても人間には「宗教」というのは必要と思われる。 しかし、「宗教」の必要性をもっと端的に
言えば、死後のためである。 死ぬというとき、体が死ぬ、朽ちるのであって、霊魂は死ぬこと
はない。 多くの宗教はここから出発しているとも言える。 

しかしこの地上に多くの宗教があったとしても、真の宗教とはイエス・キリストである! 「イエス
は救い主である」という意味を持つ御名『イエス・キリスト』こそが真の宗教である。 なぜなら
ば、人は死後、 「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まって(ヘブル 9:27)」おり、す
べての人は死後、「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになる(ローマ 14:10 )」と神のこ
とばである聖書が書いているからだ。 また「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何
一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁
明をするのです。(ヘブル 4:13 )」
とも「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善で
あれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(U
コリント 5:10)」
とも書かれている。  聖書の言葉など信じないという人、神など自分とは関係
ないという人・・など人間の側からどう受け取ろうが、これは神の側から語られたことばである。 

このように断言すると、他の宗教の方々から攻撃を受けそうではあるが、キリスト者としては
はっきり言わねばならない。 脅かしと思われようが、脅迫、強要しているとんでもないやつだと
いわれようが、言わなければならない。 何しろ永遠がかかっているからである。 厳粛に受け
取る人は幸いである。 

こんな証しがある。 寺の住職の息子として生まれた松岡という人が、生きる目的とは何かを
見いだそうと、自ら望んで僧侶の道に入り、大学では仏教を研究したという。 

仏教は深遠で、その思想、哲学の中には、偉大な真理が隠されているように思え、いつかきっ
と真理に目覚めるときが来るだろうと期待を持ち、山に入って様々な修行もしたという。 しか
し、その彼が人生の問題の解決を得たのは、仏教ではなく、全く縁のないものと考えていたイエ
ス・キリストとの出会いによって人生が変わったという。 

真剣に生きる目的を見つけようとする者に必ず、神は目を留めてくださる。 聖書では生きる目
的は、この地上のことだけではない。 この地上は永遠に向かうための備えの時であると書か
れている。 その備えの時にキリストを信じ、聖霊に導かれて生きる生き方こそ、真の生き方
であると聖書には書いている。 

その備えの仕方、つまりこの地上の歩み方は一人ひとり皆、違うであろう。 個性も環境も状
況も一人ひとり違うからだ。 ただ同じなのは、永遠に変わらぬイエス・キリストによって備えを
していること、聖霊によって歩んでいることである。 限りあるこの地上の生活の中で、人生の
目的をキリストを信じて永遠(死後)に向ける者は、永遠の命を獲得できるという最大の神の賜
物を受けるだけでなく、この地上でも渇かない生き方、潤った生き方ができるのである。 その
人の心の奥底から生ける水の川(聖霊)が、流れ出るからである。 

巷で使われている意味合いの「宗教」ではなく、真の「宗教」、『イエス・キリスト』を真の神とし、
救い主として信じ、従っていき、潤いながらこの地上生活を永遠の天の御国へ向かって歩んで
いきたいものである。 この地上でも地上生活が終わった後でもたましいの安らぎを得たいも
のである。 日々、祈り、聖書を読み、聖霊に触れられて今週も歩もう。

★新約聖書   ヨハネによる福音書  4:14
   しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与
      える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」




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