めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年12月16日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書  第一コリント人への手紙  1:21
       事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。そ
      れゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定め
       られたのです。

★新約聖書  第一コリント人への手紙  1:18
       十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神
        の力です。


●本来、「救い」「救われる」ためにということは簡単なことを神は備えてくださった。 神の前で、
人はみな、罪人である。(ローマ3・23、ガラテヤ5・19〜21、マルコ7・20〜23)  神は、罪の
あがない(救い)をするのは、完全で罪のないものの血であると定められた。 それはすべての
人が罪をあがなわれ、神の子とされる神の救いの計画であった。 

それで、罪のないお方、神の御子であられるイエス・キリストが、十字架にかかられる計画の中
で来られて、人類の罪の罰を身代わりとしてその身に受けてくださり、罪を処分してくださった。 
そして3日目によみがえられて今も生きておられ、神の御前に罪を悔い改めて、イエス・キリスト
を信じる者たちをひとり残らず完全に救ってくださる。 

ただ、このことを受け入れたら救われる。 ただ 日々の生活でこの主イエス・キリストに頼り、
祈り続けたら御国に入れる。 信仰のスタートをきってからの歩みの途上において、救いから
はずそうと妨げる悪霊の働きがあったとしても、戦ってくださるのは主であるから(ヨシュア 5:1
4)
、ただ祈って頼ればいいことである。 また、信仰が成長するために、御国に入るのに妨げ
となる肉(生まれ持った性質など)を切り取られるために様々な訓練があったとしても、その人
が倒れるような訓練は与えないと主は約束してくださっておられるから、ただ祈って頼ってい
けばいいことである。 そうするならば、最後まで主がよしとされる信仰を維持できるであろう。 
そして真の救い、永遠の命を獲得し天の御国へ入れるであろう。 

★新約聖書 ローマ人への手紙   7:15~17
   私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているので
       はなく、自分が憎むことを行なっているからです。   もし自分のしたくないことをしていると
       すれば、律法は良いものであることを認めているわけです。 ですから、それを行なってい
       るのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

●永遠の命を獲得するのを難しくしているのが、肉であり自我、すなわち罪である。 自我、
肉も結局、自分が一番、自分が中心となっていることを考えれば、そうさせているのは、やは
り「罪」と言える。 また罪を足場として悪しき霊も働く。 

しかし、ただ人が自分には「罪」がある、と真に認め、「罪」は自分の努力、力量では処分で
きないと認め、聖書に書いてある通り「罪」が処分されていなければ、死後、その報いを受け
る場所(永遠の火の池=地獄)へ行くのであると認めたらいいのだ。 

「罪」があって自分ではどうしようもないと認めた人が、イエスのところに来るであろう。 クリス
チャンであっても、日々絶えずイエスのところに来る必要があるはずだ。 確かに真に「罪」を
認め、心から悔い改めて主イエス・キリストを信じ救われても、その後全く「罪」を犯すことがな
いクリスチャンなど一人もいない。 完全な者はひとりもいない。 あのパウロでさえ、「
分はすでに完全にされているのではない。 ただひたすら捕えようとして、追求しているのです。
(ピリピ 3:12)」
と言った。 だから、日々、絶えずキリストのとこへ行く、つまり日々、絶えず祈
る! 難しいことであろうか。

イエスは当時、パリサイ人たちに「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの
罪がある。(ヨハネ福  9:41) 」
と言われた。 自分は見える、キリストを信じたから、どんなこと
をしていてももう何も罪はない、と言い張るのも困ったものだが、口先だけで「罪がある」という
のも同様に困ったものである。 罪を罪として知っていないというのが問題かもしれない。 

真に罪を知っていない者、罪を認めない者がイエスを十字架につける。 当時のパリサイ人や
律法学者たちと同様だ。 知識的に罪のことを知っているのは、知っているとはいえない。 
当時のパリサイ人や律法学者たちは、旧約聖書の内容(文字通りではあるが)をよく知ってい
た。 しかし、罪に対して知識のあるそのような者たちが、イエスを十字架にかけるべく群集を
扇動したのである。

★旧約聖書  伝道者の書  7:29
    ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考
    え方をしたがる、ということ。 (新共同訳)
        私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの
       理屈を捜し求めたのだ。 (新改訳(2版)

●本来、神は人が救われるのに決して難しいことを与えてはおられない。 救いを難しくしてい
るのは人間の方である。 旧約聖書にアラムの王の将軍ナアマン(U列王記)のことが書いて
いる。 彼がらい病にかかり、イスラエルのエリシャのところへ直してもらいに出かけた。 しか
し、エリシャの使いが来て「ヨルダン川で七たびあなたの身を洗え。そうすれば、きよくなる。」 と
言っただけだった。 ナアマンは怒って去ろうとしたとき、彼のしもべたちが「あの預言者が、も
しも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませ
んか。 ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』
と言っただけではありませんか。」
と引き止めた。 そして、ナアマンは、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸し
た。 すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

どうもアダムとエバの時、善悪の知識の木から取って食べて以来、「罪」と同時に「知恵」が人
類の中に入ってきたようである。 本当に神を知るつもりなら、また本当に「罪」を知るつもりな
ら、この世の知恵の方法、 いわゆるこの世的な学問、手段によっては決して到達できない。
(ローマ1:18-20)  「この世の知恵」は神のみこころとかけ離れており、人に罪を犯させる道
具になりえるからである。 

神を知るには、信仰が必要であり、罪を知るには聖霊の働きが必要である。 すなわち十字架
のイエスを救い主として信じることによって罪から救われ、こうして神を知ることとなる。 そして
その救いは、「宣教のことばの愚かさ」に基づく。 主イエスの十字架の事実を宣言し、そのお
方に頼り続けることは、人間が知恵を尽くし探究し、努力することに比べれば愚かなことに見え
る。 簡単なことは愚かしいことと思えるのかもしれない。 しかし、その宣教の愚かさが、実は
人を永遠の命へと導くのである。 

今、クリスチャンの我々は、信仰が正しくあるように、神の喜ばれる信仰にあずかれるよう祈っ
ていきたいものである。 そして、最初受け入れた「十字架のことば」をしっかりと自分の先頭に
置く、つまりキリストのことばを受け入れ従っていきたいものである。 そうするなら神のみわざ
を見ながら、体験しながらゴールにたどり着くであろう。 また、未信者の方々は、良心が正常
に機能するようにと願っている。 そして聖書の御ことばを、福音を聞いた今日という日に心を
かたくなにせず、イエス・キリストの救いを求めることができるようにと願っている。

★新約聖書  ヘブル人への手紙   3:15
       「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしては
   ならない。」


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