めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年12月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★旧約聖書  イザヤ書  55:11
     そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては
        来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

★旧約聖書  詩篇  33:9
    まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

マタイやルカによる福音書に当時、イスラエルを占領していたローマ軍の将校、百人隊長の
信仰について記されている。 その百人隊長が天の父なる神の御性質を反映した生き方をし、
イエスの権威に対する全き信仰を持っていたことに、我々が倣(なら)うようにということを語っ
ている。 

さて、ある百人隊長が重用していた部下が、病気で死にかけていた。 彼は自分の部下の生
命を惜しんで、ユダヤ人の長老たちをとおして主イエスの助けを請うた。 長老たちもその百人
隊長のためにイエスに熱心にお願いしている。 「この人は、あなたにそうしていただく資格の
ある人です。 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ル
カ 7:4、5 )」
と。

当時、異邦人の軍人、政治家たちはユダヤ人を見下げていた。 ローマ人の宗教は皇帝崇拝
だった。 しもべは主人の財産の一部として、人間扱いされなかった。 しもべが病気になって
死ねばそれで終わりという具合だった。 ユダヤ人も支配者異邦人を大変嫌っていた。 ある
意味互いに敵同士であったのだ。 だから、ユダヤ人のために自費で会堂を建てるなどとい
うことは異例のことだったと思われる。 その上、百人隊長は、部下を人として慈しんだ。 
また、ユダヤ人の長老たちが仲介の労を惜しまなかったということも大変珍しいことであった。

★新約聖書  ヘブル人への手紙  11:1
       信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

●さて、イエスが長老たちと一緒に隊長の家の近くまで来ると、隊長は友人たちに伝言を頼ん
で、イエスにこう申し出た。 「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の
下にお入れする資格は、私にはありません。 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じま
した。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに
『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせ
よ。』と言えば、そのとおりにいたします。(ルカ7:6〜8)」

百人隊長は「イエス様は聖なるお方で、罪深い自分が招く資格はない」と考え、しかも「来てい
ただかなくても、イエス様はひとことの言葉で自分の部下を治すことが確かにできる」と確信し
ていた。 ユダヤ人たちは「この百人隊長は神の民を愛し、会堂を建てたから要求どおりにして
もらう資格がある」というような人間の基準による判断、人間の常識による評価をした。 他方
この百人隊長は、そのような人間の善行など、神の御前には何の役にも立たない、神の御前
に立つ資格を与えはしないという謙遜を持った。 しもべに対する神の心を反映したようなあわ
れみを持ち、謙遜をもってイエスの救世主としての権威に全幅の信頼をした彼の信仰の姿勢
が、立派な信仰とイエスから賞賛された。

イエスは仰せられた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられて
います。(マタイ 28:18)」
と。 新約聖書には「キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コ
ロサイ人 2:10)」
とあり「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従え
て、神の右の座におられます。(Tペテロ 3:22)」
とある。

隊長の命令は、配下の兵隊に対して権威がある。 権威に裏づけされた隊長の言葉は、必ず
その通りになる。 まして権威の源である神のことばは、必ずその通りになる。 イエス・キリス
トを信じるということは、権威に裏付けられた神のことばを信じるということである。 またイエ
ス・キリストの権威に従うということである。 

聖書の原則として捉えておきたいことは、神がことばが発せられたら そのとおりになる!という
ことである。 たとえ目に見える状況が変わらなくても神のことばがくれば そのとおりになる。 
また神の方法は求める者には「キリストのことば」が与えられるということである。 キリストのこ
とば、神のことばが来たかどうか、もらったかどうかがクリスチャン生活において重要なこととな
る。 また、このことばを信ずるかどうかも非常に大切なことである。 

信仰は無理に思い込むものではない。 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないも
のを確信させるもの」
である。  信仰は主を、キリストのことばを信頼しきることである。 「人の
子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ 18:8)」
とイエスが言われた
が、これからの時代は信仰が揺るがされる大風が吹き、大波が来ると思われる。 

日々、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さ(ヘブル 12:2 )」ず、聖書を読
み、神に祈り、イエスに対する信仰を持ち続けて、永遠のいのちを獲得したいものである。

★新約聖書  第一テモテの手紙   6:12
       信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。・・・・・

★新約聖書  ヘブル人への手紙    11:6
    信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、
    神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。



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